2187 パリの事件といい、ナイジェリアの少女自爆といい、イスラムの怖さは、“ジハード”で象徴される復習、聖戦という言葉が謳われていることです。多くのイスラム教徒は、平和を愛する宗教だと言っているが、このジハードという言葉がある限り、過激派の存在は永久になくならない。
もう一つの懸念は、いい加減イスラムが多いインドネシアですら、学校での、他の宗教への変換を許さないことなどを含めた、イスラム教の教育の時間が長いことです。成績表も宗教、国語、算数などで評価をする。学校より、マスジッドの方に資金を使っていて、共同意識を養っている。科学技術や生産性など、生活の進歩に関する教育に時間も資金もかけていないので、それらの分野については、他宗教からの力を借りるしかない。経済的に自立できないことを、被害を受けていると思う人も多くなる。
石油や地下資源の産出量によって、イスラム教の国々の間に貧富の差が生まれている。貧しい国は、過激派が増えることになっている。それが、イスラム教です。
金曜礼拝の雰囲気を目の当たりに見ているが、私の目には異常に写る。マスジッドの前の道路は、駐車場になる。通りがかりの人も、礼拝をするのです。大の男が、頭をすりつけて祈っている姿は、不思議にしか思えない。
モハメッドさんは、日本で言うなら、武将の頭です。将軍です。戦争で相手に勝つために、巧みに宗教を利用したと思われる。多分、予想外に、支配者にとっては便利な宗教なってしまったので、その後の支配者も利用したのだと思う。
改宗を禁止したり、ジハードの考えを教義としたり、断食などとう非生産性な習慣を強いたりする。それ直に、ポリガミ(多妻制)を認めたり、分けのわからないハラム(食べてはならないもの)を示したり、分けが分からない。しかし、イスラム教徒は、理屈ではなく従っているのです。豚を食べてはならない理由を納得して知っているイスラム教徒に会ったことがない。有名な宗教家がテレビで解説しても、コーランに書いてあるからというだけで、なるほどと思う理由はない。
だから、イスラム教徒のなかの過激派の人は、これからも、とんでもない、破壊行為は繰り返すでしょう。宗教以前の人間のモラルの問題なのに、イスラム教徒の中で、払拭しようとは思わないようだ。私たちは、平和主義者といいながら、他宗教が対象なら、どこかで容認しているように感じる。戦争の種類は侵略、民族、宗教の三種類があるが、一番始末が悪く、仲直りできないのが宗教の争いです。
技術指導していて、肝心な時に、貴重な時間に、お祈りといって、その場を離れてしまう、これだけでも、国全体なおだから、膨大な損失だと思うが、もったいないと思う。
私の机の上、なぜか、rasa basoのSedaap cupがあるし、作ったばかりの濁酒がある。糖分控えめにしている
宗教 過激 容認
2015年01月12日
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