2010年07月28日
2010年07月11日
(^_-)-☆姿勢を貫いた人
斜めからインドネシアを眺めよう 662
この人は7月末に日本へ帰ると言っている。日本のどこへ帰るのでしょうか。この人を喜んで迎えてくれる場所は在るのでしょうか。無いと思います。若社長は困っているのです。一年以上何もすることが無くなっているインドネシアから帰って来いと言う辞令が出ないのでした。権限はなにも持たされていないし、持たされても、自分でなにも出来ないし、自分から、帰国の希望は出さないし、本当になにもしないで一年間、インドネシアで過ごしたのです。
最期まで、ふんぞり返り続けたすごい人。会社をたたむ原因はあなたにあることに気が付いていない。買い手の皆さんからもあきれられていることに気が付いていない。面白いことに、ご本人、会社の代表者という肩書きを誇示しているのです。生産はとっくに辞めてしまったし、装置類も空っぽにしたし、契約社員の通訳や運転手、経理の人がいるだけで、メンテもコントロールもなにもない。そして、売り先を本社が決めるのを待っていた。その、買い手希望者の案内をしていただけである。
売れたことは既に書きました。既に全額支払い済み、買った会社の人たちが訪問した時の態度が、すごかったという。まだ、そちらのものになっているわけではないから、私にアポなしで突然来てもらっては困る、今日は、他に来客があるので、帰って欲しい、また、改めて、アポを取ってから来いなさい、と、言われたとか。そして、改めて行った時の態度がもっとすごかったと、話は聞くし、知っていることは答えるが、工場の中を自由に歩き回って、設備や配管、配線をチェックすることは許可できないといわれて、なにも、点検出来なかったという。新しい会社の現場担当になる人が、なにも、調べさせてもらえず。知っていることは答えると言っていたが、なにを聞いても、知らないと言われた、知らないなら、調べてくれませんかと頼んだが、それも、出来ないと言われたとか、工場の床の強度、単位面積当たり何トンに耐えられる設計になっているのか、工場全体が均一になっているとは思えないので、どのエリアが何トンに耐えられるのか、次に入る会社の人は一番知りたいことである。勿論、知らないし、設計会社に聞いて後ほどお答えしましょうという、普通の対応ができない。
ただ、本社から、明け渡せという指令が来ていない限りは、自分がここの責任者だといって、へばりついているだけである。それも、今月でお終いになるでしょう。
買った会社は直ぐ裏手にあるが、買った会社の方から様々な手続きや話で訪問するだけで、買ってもらう側の代表者は一度も買う側の会社へ行っていない。この人、日本では会社の営業をしていた人で、インドネシア国内売りの仕事を増やして自立できるように送られてきたのでしたが、5年間、一つも仕事を獲得することができなかった。と言うより、営業の動きをしなかったのです。まったく、外交的ではないし、他人との応対が高圧的、気が効かない、言葉も全然覚えなかったし、射出成型の他社との情報交換の場を作ることはしなかった。愛想もなにもない。そんなですから、会社を売るという段階になっても、全然、動かないのです。
インドネシアの茶畑、高原や山岳地帯の開けた処にある。広大な広さである。日本等は比較にならない。機械摘みは無い、全て、人の手で摘む。緑茶を作っているという話は聞かない。全て紅茶にするようです。ジャカルタ近くではボゴール。プンチャック方面また、スバン、レンバン方面です。
営業 会社売却 帰る場所
2010年07月09日
(^_-)-☆切実な願い
斜めからインドネシアを眺めよう 660
ワールドカップ、ドイツが負けた。婿殿が悔しがっているのが目に見えるようである。日本もとっくに負けたのだから、優勝でもされたら、でかい高い鼻がもっと目立つようになってしまう。
金型の最終チェックに行ってきた。あす朝、金型を受けとり、昼前には試作が始まる。
客先にはこの部品を使う製品の注文が日本から大量に来ているとの知らせ、責任を感じる、早いところ製品化したいと思っている。
インドネシアでやりたいようにやっている私が言うのも変ですが、苦痛があるから病院へ行って、色々な検査をしてあなたには何の異常もありませんと言われるほど、なんとかしてくれよ、異常がないわけがないのだから、なんとか病名を見つけてよ、と思う事は無い。
先日、家を出る前に、NHKのASAIDHIで頭痛について特集していた。色々な頭痛があるもので、その原因を医者は問診だけである程度は特定しなければならないとは大変な仕事だなと思う。その時に総合診療科の医者が招かれて、原因の特定の仕方を解説していた。なるほどなと思う。私のパニック障害を特定したのも総合診療科の医者でした。なんでも、分けの分からない症状で、あちこちの検査の結果に異常がない時に、駆け込む場所です。そういう科があることさえ知らなかった。多くの人も、そういう科があることを知らないと思う。呼び名が良くないと思う。原因不明病気科とでもすれば分かりやすいと思う。大きな総合病院にしかない科だからなお知られていないし、総合病院の中でも、あまり、中央の目立った場所になく、奥の隅の方にあるので、普段用事のない人はその前を通ることは無いのでそういう科の名前を見ることもない。私が行き当てた静岡県立総合病院の総合診療科も患者は非常に少ないし、やはり、ポツンと、色々な科から離れた場所にあった。案内の地図を見ても、なかなか、見つけられなかったし、近くまで行っても、人がほとんどいないので、ここでいいのかなと心配するくらいだった。
他の科は、非常に賑わっていた、坐る場所もないくらいで、付き添いの人は殆ど立っているくらいだが、総合診療科はガラガラで、長椅子に寝ころんで待っている人もいたし、他の科の患者もこちらに座っていた。
もっとも、一人あたりの診療時間が長い、微に入り、細に入り、確認する必要があるからでしょう。それは、仕方がないと思う。患者はそれで安心を得られるのですから。他の科もそうだが、担当医が少ないこと、完全予約制なので、一人に長くかかる分、予約を搾っていることも空いている原因の一つである。
頭痛に限らず、原因が分からなくて、あちこちの痛みを長期で耐えている人は多いはずです。総合診療科の存在を大々的に宣伝したらいいと思う。
私が、沢山の病院へ行った限りでは、インドネシアには原因不明病を追求する科は無い。それだけ、日本は医療が進んでいるということでしょうが、やはり、宣伝不足だと思う。
インドネシアでブンガバンカイと言われている花です。蕾から開く時に動物の死体が腐る臭いがするからそう呼ばれているのです。何種類もありますが、その総称と言うことでしょう。形は得意なものが多い、作り物のような姿が多い。
また、全然話が違うけど、4トラベルに頻繁にアクセスしていただいていたPianoさんがしばらくの間、アクセスしていただけなくなり、気になっていましたが、また、現れてくれました。ほっとしています。
パニック障害 異常がある 何とかして
2010年07月06日
(^_-)-☆仕事だけではなく
斜めからインドネシアを眺めよう 657
東西と言っても、ジャカルタは家から西でジャティルフールは東です。
ちょっと早いが、ラマダン休暇を使ったドイツ行きのティケットを手配した。また、今年の断食月は8月10日頃だと思うので、それよりかなり早く前、今週中にはスラバヤ、ブリタールへ返す予定にしている。旦那と一緒の生活を出来るだけ長くしてもらいたいと思っているし、体のチェックをし、赤ちゃんができる状態にしてほしいと思っている。
間もなく、一人の生活になる。彼女が心配するのは私のパニック障害の再発である。もう、ここ一カ月ほどはパニック障害の薬を飲んでいないうえに、かなりハードな仕事をしているし、私にしてみればかなり、久しぶりに頭脳も使っている。仕事上のストレスがかなり溜まっていることを意識しているが、パニック障害の症状は全然感じない。もう、完治したと思っている。昨年末に手に入れた三か月分が今も残っている。ただし、薬は、あと、5回分、一種のお守りとして、いつも、持ち歩くリックサックの一番外側の子袋に入れてある。
だから、一人暮らしでも、近所の人たちに迷惑を掛けることはあり得ないと心配していない。
おそらく最低半年(今年中)は一人暮らしをしなければならないと思っている。料理洗濯掃除も,勿論、自分でやる。もっとも、一人暮らしだから、量も回数もかなり減るはずである。
今日から、また新しい製品の試作が始まった。これは、まだ、明かせないが、インドネシアならではの商品開発である。もともと、商売でも他人、他社と争いたくない私だし、既にインドネシア国内にあるものを作って、市場に参入したくもない。そこで、自分だけが扱えるという製品を開発し、品そろえをする必要がある。大げさなものではないが、他人が思いつかない簡単な商品を手掛けたいと思っている。
現在、ISOの習得のために、仕事ができる人間の三四人を向けているので、8月末まで、なかなか、セールスの仕事まで手が回らない。ISOを取れば、それを、武器の中の一つとして、彼らにセールス、マーケテュイングをしてもらう。その時に、もう一つの武器として、持って歩けるような製品を作ろうと思っているのです。物作りが主体のこの会社の営業の目的は、持っている技術を売り込むのであって、商品を売り込むわけではないが、持って歩く物が多ければ多いほど、訪問できる可能性のある会社が増えますし、話の種ができるというもの。独自商品を持っている方がなにかと良いに決まっています。
本社では、押出製品を主体にテクノセンターで独自製品を開発しようとしているし、客先から色々なテーマを頂いて、まだ、他社が成功していない製品に挑戦をし始めている。一年以内に私は、日本へ帰ることができるような環境にして、テクノセンターで技術開発を続行するつもりでいる。また、太田化工へも邪魔でなければ、何かの恩返しをしたいと思っている。今は、そのための助走と位置付けている。まだまだ、プレッシャーを掛け続けるでしょう。
果物のナンカにそっくり、木もそっくりですが、大きさ、味や臭いは全然違うチムベダックという果物です。実を開いた姿は何度も写真で紹介しましたが、木になっている処は初です。
ダムの放水口、円形の回りの縁から水が落ちます。この日は霧のため、見学禁止でした。落ちた人がいるからです。
孤独 自立 頼らない
2010年06月11日
(^_-)-☆Say no to IJIME
斜めからインドネシアを眺めよう 634
インドネシアのあちこちにSay no to Drugという看板が掲げられている。いじめ、パワーハラスメントについて、思うことを書きます。
私が、インドネシアでアドバイザーをしている間、強烈ないじめの対象にされた理由ははっきりしています。私の存在が、彼らの立場を危うくする、自分の立場を奪われるという、被害妄想です。彼らの共通した性格は臆病で、他人に接する時、不自然なくらいに丁寧。鳥肌が立つくらい丁寧。一旦、他人の目が無くなると、今度は、ひどく怒りやすくなる、すぐに、プッツンして怒鳴り出す。仕事はできないので自分自身でやることは殆どない、怒鳴ってやらせることが得意である。白を黒だと言って押し付ける。言いぱなしで、相手の意見を聞こうともしない。始末が悪い、駄々っ子が間違って経営者に押されてしまった。自分から、経営者になれる人ではない。
そういう人が牛耳る会社に居てしまったのです。私が選ぶことはできない。
置かれた状況は、
1 アドバーザーという地位であって、直接的な上から下への組織の中に入っていない。
2 押出という仕事では、私以外は全くの素人。
3 品質管理や経営能力、営業能力、人の使い方、接し方、言葉を覚える速度、生活順応等は全て私が上。
4 日本の社長からの依頼
アドバイザーとして、私が持っている知識や行動、部下たちへの指導力、外部との接触力、これらを、見習ったり、うまく使ったりして、自分も勉強し、自分の能力を高めると同時に、会社を外部関係や内部的にも安定させる方向にもっていけばいいと思うのだが、その、能力が無いので、私を目の上のたんこぶに思ってしまうのです。苛めても、いじめても、すごすごと引き揚げないので、いじめがどんどんアカラサマになるのです。
第三者の日本人が見ていない閉鎖された特殊な環境なので、誰に気を使うこともない、やりたい放題がエスカレートする。彼らは、いじめてなどいない、と、言い訳を外に向かって言う必要もいないし、私がパワハラにあっていると叫んでも、誰もが、確認する方法がない。事実、北川工業の本社は、パニック障害で居たたまれず、逃げ帰ったことを、私のわがままで逃げ帰ったと思っている。そういうものです。ですから、今回は会社の名前も、はっきり出しました。若社長にとって徹底的に膿を出すにはこの方が良いと思うからです。
遡って、14年前、初めて、PT.KITAGAWAに赴任して、一ヶ月後、北川工業の当時ナンバー2と言われていた小川常務が会社へきた。そして、私を見つけるなり、「太田さん、余計なことはしないでください、何もしないでください、なにか、問題があった時、私が責任を取らなければなりません、営業もしないでください、北川工業の方針は下請けをしないことです。あなたみたいな立場で外部から北川社長が呼んだ人は大勢います。役に立った人は一人もいません。契約期間が終わるまで、じっとしていて、終わったら、直ぐに帰ってください」とはっきり言われた。例のインドネシア産を隠そうと徹底的にインドネシア人を(製造地偽装を)指導した人です。いきなり、大逆風である。それを、当時の本社の社長や副社長は知らない。
すぐ後に知ったことだが、多くの途中入社の人が、彼から無視され、また、社員には、其の人と接触するなと言う命令が多くでいた。生え抜きの社長の側近の人もその被害にあって苦しんでいる人もいた。
その後、私がPT.KITAGAWAから去るまで、彼と仕事の話をしたことは一度もないし、皆さんがよく誘われる食事会に誘われたこともない、射出のインドネシア人も時々、昼食会に誘われたが、押出の私の部下が誘われたことが無い。徹底的にシカトされたし、差別をされた。
彼のお気に入りにならないと何をされるかわからないという北川工業の人は彼に逆らえないでやむ負えず彼に合わせる若い人もいたが、本質的に常務と同じ考えなのでしょう、ヒラノ、イトウからも無視されていた。仕舞いには、押出の仕事からも外され、客先との接触も禁止された、私の居場所は事務所の入り口近くのコピー機の近くに移された。小川元常務の命令である。彼が何回目かに来た時の翌日、出勤していったら、私に何の予告もなく、机の場所が入り口近くへ移されていた。サラリーマンの世界ってこうなんだ、いじめいじめと聞いていたが、こういうことなんだと、妙な納得をした。
私がPT.KITAGAWAを去ってから、間もなく、この常務は、社内の内部告発やネットでセクハラやパワハラの事実を明かされ、やめさせる羽目になった、今は、北川工業とは切れている。発表された退任理由は違うと思うが、実際は、私が書いたことが正確です。それに伴い、元常務派の人も、会社に居辛くなっている。当然である。
自分たちがやったことは正しかったと思う人はいないと思う。その時は、ただただ、狂っていただけだと思う。冷静になって、自分が、何をしてしまったのか、考えてほしい、そこから、多くの人々に迷惑を掛けた。そして何も貢献しなかったことを知ってほしい。
私に何をしたか、そして、その結果、何か得るものがあったのか、何もなかったはずです。そして、今、私は反撃をしています。彼らはそれを予想できないのです。世の中のパワハラは、私のようなケースともうひといつ、自分より能力が低いと判断した人をいじめるケースです。これは、学校での苛めに似ています。このケースの方がはるかに多いだろうし、あらゆる年代や場所であると思う。苛められた側は、泣き寝入りをするしかないが。何年か過ぎても私のようには、反撃できない人の方が多い。いずれにしても、いじめた側は、永久に続けられないし、いつか、自分がみじめになる時が来るはずだし、社会的にも制裁を受ける時が来るはずです。
ですから、今自分が誰かをいじめているかどうかを、いつも、考えてほしいと思う。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
私がインドネシアに居た、そして、今もいる理由(根拠)はインドネシア人の若者に私の技術を伝えること、そして、そのためには仕事を見つけなければならない、そこで、自然に発生する責任は、その仕事を依頼してくれた会社に迷惑を掛けないということだけでなく、貢献しなければならない。だから、何があっても、何をされても、すごすごと、逃げ出すわけにはいかないし、何より、そういう、理不尽な扱いをする人を許せないからです。PT.KITAGAWAには、私が尊敬する人の力で入場することが時間の問題ということが明らかになった。もう一社については、私の力で、二年後を目標に入場するよう行動をする。理不尽にいじめをした人には必ず、しっぺ返しがくる。
会社の食堂(キャンティーン)です。バナナの配送
泣き寝入り 逆襲 気の毒
2010年06月07日
(^_-)-☆執拗ないじめパワハラ
斜めからインドネシアを眺めよう 630
(明らかな動揺)
いよいよ、物語はクライマックスに差し掛かってきました。
月曜日に退院し、メディカロカに向かった。彼らは遅い、私が先に着き、菊池先生と相談したが、結局、以前と同じく、原因はわからず、「帰国を勧めることはできない」、「じゃあ、どうすればいいの?」と聞いたら、先生は、「ほかの検査、(まだの、MRI+MRA)などの検査をできるところで、してもらってください、」だけだった。そんな検査はとっくにやっていて、この医師には結果も伝えてあった。ご本人忘れているのだ。専門が循環器なので、どうしてもそっち方向に行ってしまう。「モルヒネは何の意味がない」とか、「三半器管に障害が在るのではないか」と、見当違いのことしか言わない。何度も言っている、脈拍が飛んでしまうことや息苦しくなることについて何も説明しない。この医者じゃ、どうしようもないと思っていたので、帰国前の単なる確認だった。
ヒラノとイトウが遅れてきて、入ってきて、話しを聞き始めた。二人とも、「問題ないです」という言葉を期待しながら、「どうですか、日本へ帰すことができますか?」
菊池医師曰く、「危険です。責任は持てません、シンガポールでも、だめです。チャーター機で行くにしても、医師や看護婦の付き添いが無ければ無理です、帰国を強行し、途中で引き返したり、途中の国に着陸したりすれば、何億円もの損害賠償金が発生する可能性があります。」彼らにとっては予想しなかった、ショックな言葉だった。
下手ノの戸惑いが、顔に現れた。下手ノとうどウの、大落胆したように態度がガラッと変わった。私の体が持つか持たないかより、悲しいかな、その損害賠償金のことが、今度は最重要綱目としてインプットされてしまった様だ。基礎知識や行動手段を何も持たないので、態度が単純に見え見えに現れる。帰国など、とんでもないと、180度考えがひっくり返った。今度は、「キタガワ社長が飛行機に乗るなと言っているから、悪いことを言わないから、帰らないで、病院でじっとしていてくれ」。というのです。「悪いことは言わないから帰れ、」といった、根拠を聞きたい。
朝、退院してきたにもかかわらず、また、入院を押し付けられたが、菊池医師もヒラノもイトウもインドネシアの病院事情などなにも知らない。「どこの病院がいい?」と私に聞くのです、MRI+MRA機器病院を選ぶのは私でした。私は、インドネシアから脱出しやすいように、空港に一番近い、国立心臓センター(ハラオアンキタ)に行くことにした。私にとっては、皆さんが側にいることが邪魔なだけ、いれば、分かってもらえるわけが無いのに、説明をしなければならない。
どこの病院へ行くにしても、彼らが一緒ということになれば、時々、気絶しそうになる病人の私が、彼らの世話をしなければならない。私にとっては病気で苦しんでいるうえに、厄介者が付いてきて、彼らに気を使わなければならない。
その日の夕方も、マリアさんに手伝ってもらって、入院手続きをして入院した。その間大男の彼らは何もしないで、見張るように、くっついてきているだけである。私から厄介者と思われている事に気が付かない。
しかし、私の帰国決行の決意は変わっていなかった。インドネシアにいたらどうにもならないことが分かった。決行するしかない。
(覚悟の脱出劇)
この前後の何日かの投稿を、ぜひ、ジャカルタ新聞やジャカルタ日本大使館、日本領事館、ジャカルタ日本人会の方々にも読んでいただきたいと思う。弱い人、自分で行動できない人なら、自殺でもしかねない状況だと思います。普通の人では同じようにはできません。私だから出来た行動でした。
彼らが見張っているので、どうしようもない。その日のチケットをキャンセルし木曜日13日の予約をした。彼らは、ハラパンキタの入院手続きを待ちながら、うろうろしているだけで、何をしに来たのかわからないが、「ここから、出ない様に」と言い残していなくなった。私の病気については何も考えていないのである。
11、12,13日、経理の大津さんが総務のユッサ君と共に、AIUから医療費を受け取るための書類などのことで、見舞いに来てくれていた。直ぐに、今まで払った全額が払いもどされた。約20万円ほどだった。脱出前に受け取れた。感謝です。
別の話だが、経理の手伝いに来ていた大津さんもパワハラの対象になっていた。一年くらいいて日本へ戻った。私とは三カ月ほどオーバーラップしただけだった。しかし、彼には世話になった。事務所でヒラノやイトウから大声で、どなられているのを何回か目撃した。怒っている理由が、やはり、二人の知識なしだったことは明らか。
決行について、もし、ヒラノに話せば、今度は帰国なんて、とんでもないと妨害される。既に一度邪魔されているのですから、退院手続きをした後、病院に頼んで、出発時間まで、居させてもらった。そして、誰にも告げず13日、22時病院から抜け出し、直接空港に向かい日本へ出発した。そこまで、マリアさんが献身的な世話をしてくれた。空港で、感謝感激で分かれた。再会を誓った。インドネシアからの決死の脱出劇でした。
私がヒラノに言ったことに耳を傾けず、自分で医者に確認することもしないで、「帰れ、帰れ」と言っていた人が、医者からの話を聞いたとたんに、「帰ってはならない、」になってしまった。
私が、彼らを無視して、帰国してしまったことを、今度は、他の日本人に、「太田はとんでもない奴だ」と、話したそうです。帰らなくてもトンデモナイ、帰ってしまってもトンデモナイ。今でも、彼が、可愛がっている通訳のデウィからの話でした。どこまでいっても、底抜けにおバカさんで、手の打ちようが無い重病人ですな。 通訳の意識的な間違った噂を吹き込まれ、操られていた操り人形(ワヤン)であることに気が付いていない。ヒラノは現在でも、其の通訳の紐を切られたくないので、唯一の頼りだから、仕方が無い。
サテライトでも機内でも、何度も脈拍が飛んだ、其のたびに、もうだめかと思った。真夜中のフライトで一睡もできなかった。14日朝成田着、頭ががんがん痛む、ふらふらしながら、日本医大成田空港クリニック(ココでもAIUが効く)に転がり込んだ。CTスキャン、心電図、頚部レントゲン、結果、悪いところなし。一時間半ほど点滴を受けながら横になった。なんとなく歩けるようになったので、また、頭がふらふらしながら、成田エクスプレスで、東京駅へやっと着いた。しかし、頭ががんがんして新幹線ホームまで行けない。警備の警官に連れて行ってもらい駅の旅行者診療所で、一時間ほど横にならせてもらった。家まで、よく、自力でたどり着いたと思う。普通は12:00前に家に着くが、この時は17:00過ぎていた。妻には知らせてあったので、あまり深刻に考えていなかったようだった。生きて、自力でたどり着いて、コンナほっとしたことはなかったが、これから、また、試練が待っていた。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
(パニック障害から脱出成功)
胃癌の切除の麻酔から目が覚めた時以来のまだ、生きていたという感動でした。しかし、自分の苦しみのほかに、邪魔な余計な苦しみが在っただけに、試練は長かったし、精神的に理不尽を強く感じていた。生き返ったという感覚は数段大きかった。
まず、何とか早く、日本で、体を治し、次にやるべきこと、やらなければならないことができる体に戻さなければならないことを直ぐに意識した。 再起を課して、必ず治すと誓った。しかし、現実は厳しさが続いた。もうだめだと思ったことが何度あった。
早速、いくつかの、近所の開業医を回ったが、何の改善もなく、やはり、息苦しくなったり、気絶しそうになったり、ヒドイ、症状は続いた。約、一か月の間に、三回、タクシーで総合病院の救急外来へ夜中に駆け込んだ、しかし、いずれも、原因付いて明快に答えを出してもらえなかった。何より厳しかったのは、頻繁に心臓の鼓動が休んでしまうことでした。必ず、また、動きだすから生きているわけですが、其の都度、もうだめだと思わされた。約、一か月経過後、過呼吸になって、死ぬかと思うくらいに、体が冷たくなり、ガタガタ震えが来て、気が遠くなることを感じた。小康状態で、救急外来に駆け込んだが、其のベッドで待っているとき、また、ヒドイ症状になって、大声で、苦しみ、不安を叫んでしまった。他の優先患者の方にいっている看護婦がすっ飛んできて、私の顔の上に紙袋を被せた。「すぐ、良くなるから、そのまま、呼吸を出来るだけしないように」と言い残して、直ぐ、いなくなってしまった。
その通り、二三分で、震えも冷えも、嘘のように無くなってしまった。ほっとしたところへ、医者がやってきた、症状と私がとった行動を説明した。そして、今は、症状が消えてしまっていることも話した。医者曰く、「今日はもう帰っていただいて、明日、総合診療科で受診してください」とアドバイスを受けた。
この病院の精神内科、外科、耳鼻咽喉科、心臓外科には相談に行っていたが、総合診療科というのがあることを知らなかったし。それらの科の医者から勧められもしなかった。
うつ病など、精神的な原因がはっきり数字で出てこない病気の相談に乗る科だった。簡単にいえば精神病の診療に当たるところでした。神経の誤動作は何を検査しても分からない、症状だけから病名を割り出し、治療に当たるのです。前にも書きましたが、ここで、パニック障害と宣言され、薬を飲んで、其の時から心臓が止まることは全くなくなった。それ以来、何年か後の今も、止まることはない。それだけで、私にとっては十分でした。その他の症状はまだ続いていたが、もうそれで、行動できる、出来ないは私の気持ち次第になったと感じた。発病から約三ヵ月間の苦闘でした。
死んだ気になったのだから、しばらくの休みののち何でもできると改めて思った。
私でなければ、とっくに打ちひしがれて、引きこまされてしまうでしょうが、私で、相手が悪かった。やられっぱなしでは気が済みませんし、こういくことをされた経験のある方に勇気を持ってもらうために、迷ったが、今回は、あえて実名を出しました。中傷誹謗や作り話ではなく、事実を書いています。事実と違うなら、こそこそ、少ない話し相手に私の批判話をするのではなく、堂々と、反論の投稿をしてください。もっとも、そういう、ブログやフェースブックなどに書き込む手段を知らない人たちですから、出来ないでしょう。
PT、KGSに最後まで尽くしていた経理のAさんから6月10日にやっとPT,KGSから解放されることになったと報告があった。日本に戻っても、彼に期待することは無いので、インドネシアでもヒラノの釣り三昧を放任してきたが、その生活も間もなく終われでしょう。もう、おそらく、会社を辞めるしかないでしょう。新社長は、彼の存在に戸惑っている。
死人に口無しとばかりのインドネシアから居なくなった私を悪者にし、自分を正当化しようとしても、残念でした。死人がインドネシアに生き返ってしまったのですから、当てが外れたでしょう。私がPT.KGSの跡地に入場するのは間もなくですから、私の顔を見たくなければ、早く、帰国した方がいいと思いますよ。それとも、当時のいきさつを話しますか。説明をしてもらいたいことが沢山あります。
私がインドネシアには戻らないと決め込んで、私が居なくなったことを、すべて私の無責任からだと、言い廻してしまったことも、自分がパワハラをしたことを、覆い隠す、愚かな手段だったのです。
Toko bangunanといって日本ではホームセンターのようなもの、色々な、日曜大工用の道具や設備、装置を売っている。それと、移動toko bangunan大工道具、左官道具、電気工事道具を売ってまわっている。
正当化 悲しい人達 存在が罪
2010年06月06日
(^_-)-☆最低最悪のコンビ
斜めからインドネシアを眺めよう 629
(どうしようもない)
ずっとさかのぼって、このパニック障害発病の一年半前ころ、それ以前は、ヒトウとO社長だったのでイトウに対する歯止めが利いていたが、イラノが社長になり、かなり程度が低いお二人さん、イラノとヒトウがそろった状態で会社を任されることになった。鈍感の二人だがプッツンだけは早い。プッツンされて、説明しても、「何のことを言っているのかわからん」とまた。プッツンされる。駄々っ子のようなもの、そのうち、プッツンされても、そのまま、相手にしないようにしたので、なお、程度の低い同志が、意気投合して、勝ち誇る。おまけにインドネシア語を覚えようとしないで、作り話のゴシップを情報として伝える通訳を重用した。言っていることは全て出鱈目の言いがかりだけ、自分で確認できないのです。多数決の世界なので、こちらはどうしようもない。
彼らが私に文句を言ってくることは、自分が直接何をされたということではない。私は、彼らから頼まれれば何でも、直接手伝っていた。彼らに被害を与えたことは一度もない。私はアドバイスもした。そのようにやれば、なにもかも、うまくいくし、本社からも、従業員からも好かれるはずである。しかし、気の毒なくらい、全く、出来ないことだった。
彼らの怒りは、私が、他の誰かの手助けをした、そそのかしたという情報を通訳から聞いたという話だけである。私にしてみれば、心当たりのないことばかりだった。
他の人が、何故、私を悪く言うのか、攻撃するのかと聞いても、答えないという。PT.AFMIのナガサワは、自分が追い出されるかも知れなかった、と、言っていたそうです。
これから書くことは、この事を踏まえての話になる。
強烈ないじめが続いた。無知の極みは、人がわざと、嫌がらせて、作らなければ出来ない状態の不具合を、イトウの自作自演で作り出し、クレームを発生させ、私の責任にし、私をクレームの話に立ちいらないようにし、その対策についても、対策にならない対策を作り出し、客先や本社に報告をして、自分が解決したという演技をして見せた。いかなる条件でも、製造過程では出来ない不良の状態を、彼自身は、再現できたと、私に、吐き捨てるように言った。押出については全く素人で、ナイロンに色々な種類があることも知らないで、射出の専門家と自称している人間が、日本で私しかできない製品について、口をだし、出来っこない、状態が、出来たと言った。私に、その出来た状態を見せない。
イトウ自身が、良品を折ったり曲げたり、断面形状を、物理的な力を加えて、変形させてしまって、押出の検査員が三重にチェックしてOKの印を押した箱の中に、それを、混ぜてしまったのです。それが、不良発生の原因でした。対策は、押出製品の出荷前倉庫にイトウが近づけないようにすることです。
現実にこういう状況だったのです。怖いですね。今度は、三年半ぐらい、さかのぼって、帰国する前、とどめの、程度の低さを食らった話。2006年6月26日 月曜日の朝、8時過ぎ、ここから、私の試練が始まった。ほとんど、突然、目眩がして、立っていられなくなり、今までに無かったことでしたので、自分自身びっくりで、病院へ直行、リッポチカランのシロアムという、総合病院です。クリスチャン系でインドネシアでは指折りの有名病院です。
しかし、病気はなんだったんでしょうか、結局、医者の見立てでは、血圧も血液検査の結果も、良好すぎるくらいだという。そのほか、心電図も正常。反射神経機能も全く問題なし。歳と疲れからだという。本当かな?と思いますが、そのまま、泊まっていても、進展は無いと判断し、目まい止めの薬というものをもらって、早々、翌日12時に出てきてしまった。何度も気絶しそうになるので、退院したその足で、家の近くのアニッサ病院へ行った。貧血と診断され、増血剤を処方され家に戻った。
その後も、どうしようもないので、アニッサ、ジャカルタのSOS,竹の子診療所、メディカロカ、プルタミナ、国立心臓センター(ハラパンキタ)、竹の子診療所、アニッサ、メディカロカ、国立心臓センターの順に二週間、渡り歩いた。
(底なしおバカさん)
長い間、狂気の苛めが続いたが、私が分けの分からない症状になっても、それは,やむことはなかった。
発病して二日後、会社代表のイラノに状況を電話で知らせたとき、電話で最初に、日本人の医者からは「飛行機に乗ることはたとえシンガポールでも保障できない」といわれた、と話したのに、また、AIUの保険が効かない病院でも後で領収書をまとめて請求すれば全額、もどってくることはわかっていたのに、ヒラノから出た言葉は、「太田さん、悪い事いわないから、日本へ速く帰った方がいいよ。」「なんで、そんな保険が効かない病院に行くんですか」見当違いのことを言うので、「有難うございます。迷惑かけてすみません。」と決まり文句で答えておいた。(彼は、領収書とともに申請すれば即日、保険会社から振り込まれることを知らない)
知識、行動力が私の100分の1も無い人が、何も知らないのに、私に、「悪い事言わないから」と、上から物をいう、面白い。苦笑してしまった。日本語の使い方も知らない。自分で確認行動ができない人だから、「悪いこといわないから、自分で日本人医者に確認してよ、」と言いたい。結局、最期まで私の邪魔ばかりして、手助けになることは全くしなかった。出来ないのでした。
一週間後、国立心臓センターに入院している私の部屋へ来て、私が立って対応しているのに、件のヒラノ、いきなり、部屋にあった椅子にのけぞる様に座りこんで、「具合はどうですか」私は、現状と、今までどこの病院へ行ってどんな検査をしたかを説明し、日本人がいる病院にも二箇所行って、日本人の医者の診断を受け、どうしたらいいかも聞いた。日本人医師は、危険だから「飛行機は勧められないシンガポールでも責任は持てない」と、言われたことをまた告げた。イラノもヒトウも、ぜんぜん聞いていない。イラノ、全く私の話を無視し、のけぞったまま、「太田さん、早く日本へ帰ったほうがいいよ」と、怒るように、言った。ヒトウは「金持ちは皆、シンガポールへ行くのに」と捨てるように言った。あほか、この人らはと、改めて思った。とにかく、厄介者は早くインドネシアからいなくなって欲しい、それだけだ。葬式でも出すことになったら一大事、自分たちでは何も手段はないし、独自に情報を集める事ができない、能力が無いので、その気持ちだけ。
見舞いどころか、裏付けもなく、ただただ、早く、インドネシアから消えろと、いいに来たのです。私は、孤軍奮闘、何とか、帰国できるような状態したいと、あちこちの医者に相談しているのに、その手伝いをしようという考えも、毛頭ない。出来ないので仕方が無いが、せめて、私の邪魔だけはしないように願いたいだけなのですが。
ここから、今日の話。50日ぶりに、マリアさんが来て、安心が増えた。部屋から鼠の糞が消えて清潔になった。妊娠したのだろうか、そのことについては話題にしない。
日系の中小企業で、日本人が一人しかいない会社が多くある。その中で、何社かは長期で勤務し、本社には交代要員がいそうもない会社である。そういう会社の中で、私が把握している数社は、その日本人が独裁者のように振る舞い、従業員いじめをしている。そういう会社から、今回、何人かを救い出すことができる機会を得たので、その動きを具体的にしている。高給で引き抜くのではなく、今より安い給料で来てもらえるのです。私が仲間意識で人を使うことは、今の従業員から、保証されるからです。仕事は楽しく、リラックスしながら出来るのが何よりです。怒鳴られながら、では、インドネシア人だって手伝う気になれない。
(手柄アピール)
それから、また、ほぼ、一週間後の日曜日、呼吸困難で緊急入院していた家の近くのアニッサ病院に現れた。今度は同社の日本人のヒラノ、イトウ、大津さん、三人そろってやってきた。というのは、土曜日に私のパニック状態(過呼吸)を見て、マリアさんが、危機を感じ、私の携帯電話に登録されている人たちで会社関係と思われる人全員に電話を掛けてしまったのでした。インドネシア人スタッフも10人ほど来た。
イトウ、曰く、「メディカロカ(ジャカルタ)の日本人医師、菊池さんに相談して、OKが出たら、日本へ出発する段取りをとるから、明日、ここを出て、メディカロカへ行ってください」と、のたまった。
この時、私の決意は、明日朝早くここを出て、メディカロカへいって、改めて、菊池医師の意見を聞くつもりでいた。医師に何を言われても、その夜、日本へ帰るつもりだった。前日土曜日に、メディカロカは休みだったが、竹の子に電話で、メディカロカの予約をお願いした。アシスタントを通して、月曜日9時に予約をしてもらった。竹の子の医師が「何か事故があったら大変なので、同じ会社の日本人をどうしても紹介してください」というので、イトウを紹介しておいた。だから、竹の子の医師からイトウに電話し、月曜日の段取りを話したのだった。それを、イトウが、あたかも自分が全て、手配したような口のきき方で、のたまったのだった。あほかこいつ、こんなところで自分の手柄話をヒラノに向けにしようとしている。2人とも、厄介払いが、自分の手柄になると思っている。事実、日本の上司は、元オダワ常務のように、こういうことを評価する人たちなのです。
それを受けて、ヒラノ、してやったりと、曰く「医者が帰っていいと言ったら直ぐ帰ってください」「キタガワ社長も日本へ早く帰るように言っているから、帰った方がいい」とまだ言っていた。「飛行機に乗っていい」というに決まっていると思いこんでいる。キタガワ社長が何故そう言えるのでしょうか、私から何も報告していないきたがわ社長が「早く帰国せよ」というのは、まったく、見当はずれである。キタガワ社長が言っているといえば効き目があると思ったヒラノの口から出まかせとしか思えない。キタガワ社長がそんな無責任なことを言うはずが無い。愚かな人だ。
帰国し、挨拶にいた時、キタガワ社長に確認したが、「私はなにも状況が分からないから、帰れとも帰るなとも、何も指示していない」と言っていた。当り前の話である。
私は、アニッサ病院でモルヒネや精神安定剤を投与され、かなり、不安がなくなっていたので、どんなことを言われても、明日の夜中にインドネシアを脱出するつもりでいた。チケットも既にマリアさんに頼んで、手に入れてあった。
ゴルフ場のハチの巣
セクハラ 社内いじめ 責任転嫁
2010年06月05日
(^_-)-☆パニック障害の原因、症状、治療
パワーハラスメント 無知 無能
斜めからインドネシアを眺めよう 628
ある人が会社へ来てインドネシアのちょっと昔の話をしていった。その中に、撤退し南部に売ることが決まっている会社の社長さんヒラノが、私が2006年に許可なく急きょ帰国してしまったと、其の人に話をしていたという話が出た。ということで、その他の人にも、私はとんでもない人だったと機会があるごとに言っていた、という話を色々な人から聞いていたので、もう一度、その時のことを載せることにした。もう、私が、インドネシアへ戻れない、何を言っても、私の耳には入らないと想って、私のことを悪者にして自分の状態を正当化しようとしていたことが分かった。
ということで、以前書いたパニック障害についてその原因と治るまでの経過をもう一度纏めて載せます。
一人でなくて良かった
今から思い起こすと大変な試練の日々でした。人の手助けだけを考えて行動している私が、強烈なパワハラの対象とされた事実を一週間にわたって書きます。同じような被害の体験者も多いと思う。今は解散したPT.KGS(間もなく私も再入場し押出成形をする可能性がでてきています)の日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。人生が開けます。
現在 発病以来約四年近くになります。すでに、ほとんど、普通に戻っています。原因がはっきりし、其れに合った薬を飲み続けているからです。病名はパニック障害(不安症候群)です。原因は過度の筋肉疲労と脳の使いすぎと神経の使いすぎだそうです。神経があちこちで誤動作をしてしまう立派な病気です。
インターネットで検索すれば詳しく知る事ができます。
こんなに分けが分からない大変な病気があったとは、全く知らなかった。あちこちで、いろいろな検査を繰り返しましたが、CTスキャン MRI+MRA 24時間レコーディングホルター、心電図、各種エコー、平衡機能検査、胸部、頚部X線、勿論血液、尿検査も全て異常なし。
インドネシアでは、国立心臓センター(Harapan Kita)、たけのこ、Medikaroka、Siloam、SOS,PERTAMINA ANISSA,それらも、二回三回のところもありました。いずれも、的確な病名を指摘してもらえなかった。すべての科から、数値的には正常として見離された。心臓などはこの位の不整脈は誰にでもあることで、いちいち、騒ぐのは臆病すぎるとまで、言われた。ただし、竹の子とアニッサは神経安定剤を処方してくれたので、若干の効果はあった。
この間、ずっと私の手伝いをしてくれたのがお手伝いのマリアさんでした。彼女は運転免許を持っていたので、真夜中でもジャカルタの病院へ送ってくれたし、入院中は病院から学校に通ったりして、何時もそばにいてくれた。私の病気は別名、孤独恐怖症候群ともいいます。一人の時、色々な症状が出やすいのです。またそれが恐怖になると、なお、出やすくなる。マリアさんがいてくれてどれほど助かったか知れない。
日本では日本医科大成田空港クリニック、そして、静岡県立総合病院、耳鼻咽喉科、神経内科、循環器科、からは見離され、その代わり、神経安定剤のデパス錠0.5mgを処方してもらった、これがとんでもないことになった7月26日、就寝21:00前に飲んで寝た、27日朝 4:30目がさめた、その時から、ひどいことになった。薬が切れたリバウンドだった。息苦しい、両手足はしびれ、痙攣し、しばらく我慢しようかとも思ったが、ただごとではないと感じ、タクシーで県立病院の救急医療室に飛びこんでしまった。
これが、ラッキーだったというか。救急医療室に着いたとたん、ほとんど、意識がなくなってしまったが、医者の診断は過呼吸障害だという。血液中の酸素が多すぎ炭酸ガスが足りないという。呼吸をできるだけ止めるように言われた。紙袋を顔に被せられた。息苦しいのは酸素が多すぎるのに、一生懸命呼吸をしようとするから、なお、酸素が多くなってしまう。初めて知った。(インドネシアではこんな症状が何度もあって、其の都度、死の恐怖を感じた。)
間もなく、正常に戻った。血液検査、胸のX線写真も全く問題なし、その他もやはり、全部正常。明日の朝、総合診療科にかかるようにアドバイスされ、家に戻った。
翌日09:30 最後の砦である、勧められた総合診療科で受診した。袴田医師である。とにかく、「あらゆる、検査結果が正常。これだけ正常な人は珍しいくらいだ、90−100まで生きますよ」。と言われながら、出された、症状チェック表、
1 息苦しい2 目眩がする 3 頭痛がする 4 頭が重い 5 動悸が気になる 6 胸が痛む 7 目の乾き 8 唾液が減少(口の渇き) 9 寒気
10 手足がしびれる 11体のあちこちでちくちく感じる 12気絶はしないがしそうになる 13死の恐怖を感じる 14 他人と話しをしている時は症状が現れにくい
15 一人でいるのが怖い16 それらがおさまっても、それらに対する恐怖心。
17 音に敏感になる。18 脈が飛ぶ。
続いて、見せられたのが、生活状況、1 普段疲れを余り感じない。2 頭脳を常に使っている。3 スポーツは盛んにやる。 4 職場でストレスを感じるが逃げない。
全てが、私に該当した。典型的な、不安症候群(パニック障害)と断定された。「ぴったりの薬があります。主な症状は二週間程度でなおります。」しかし、薬は三種類あり、どれも90%の人に効くということで、まず、其の一種類目から試し始めました。
コンスタンという薬が劇的に効いた。気絶しそうになる事は全くなくなった。それだけでも、不安の90%は解消した。
現在は、パニックはなくなっています。でも、まだ、以前の恐怖が忘れられず、また何か気絶しそうになるのではないか何処にいても、なにをしていても不安です。
ほとんど発病前にもどっています。
症状がほとんど消えた一ヵ月後、完全帰国の為の手続きと、身の周りの整理の為にインドネシアへ戻った。一週間ほどの間、親しい方たちに挨拶を済ませ、2006年8月25日PT.KGSと完全に切れた。三人の代表者の元で9年間非常に充実していたが、四人目の代表者のヒラノが着任してからあからさまないじめが始まった。
そのために派遣された営業の専門家と聞いていたが、仕事を獲得できないし、獲得したわずかな仕事も、間違えて、大損の見積もりを出し、やればやるほど損を大きくしていたのに、本人たちは、大儲けをしていると思い込んでいた。早く、私に入場されると、そういうことが、全て、引き継ぎで明らかになってしまうので、わざと、無血開城を遅らせていると勘繰りたくなる。そういう会社が、解散する状態を書いてあります。今は解散したPT.KGSの日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。目からうろこになるでしょう。
ポンティアナックで高級ホテルのホテルカプアスの朝食です。インドネシアではめったに食べない高級朝食です。ツインベッドルーム(朝食付き)で三千円、一人1500円と言うことになる。私は果物とソーセージにご飯はほんの少し、コーンフレークを少々です。マリアさんはナシクニン(黄色いご飯)に鶏肉をボイルしたものと野菜いためのようなものを取った。赤いサンバルが添えてある、これを付けながら食べるのです。鳥肉に付けてある赤いケチャップのようなものは辛くない。テーマニス(紅茶)やブアブアハン(果物類)はこれの外側に置いてある。
パワーハラスメント 無知 無能
斜めからインドネシアを眺めよう 628
ある人が会社へ来てインドネシアのちょっと昔の話をしていった。その中に、撤退し南部に売ることが決まっている会社の社長さんヒラノが、私が2006年に許可なく急きょ帰国してしまったと、其の人に話をしていたという話が出た。ということで、その他の人にも、私はとんでもない人だったと機会があるごとに言っていた、という話を色々な人から聞いていたので、もう一度、その時のことを載せることにした。もう、私が、インドネシアへ戻れない、何を言っても、私の耳には入らないと想って、私のことを悪者にして自分の状態を正当化しようとしていたことが分かった。
ということで、以前書いたパニック障害についてその原因と治るまでの経過をもう一度纏めて載せます。
一人でなくて良かった
今から思い起こすと大変な試練の日々でした。人の手助けだけを考えて行動している私が、強烈なパワハラの対象とされた事実を一週間にわたって書きます。同じような被害の体験者も多いと思う。今は解散したPT.KGS(間もなく私も再入場し押出成形をする可能性がでてきています)の日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。人生が開けます。
現在 発病以来約四年近くになります。すでに、ほとんど、普通に戻っています。原因がはっきりし、其れに合った薬を飲み続けているからです。病名はパニック障害(不安症候群)です。原因は過度の筋肉疲労と脳の使いすぎと神経の使いすぎだそうです。神経があちこちで誤動作をしてしまう立派な病気です。
インターネットで検索すれば詳しく知る事ができます。
こんなに分けが分からない大変な病気があったとは、全く知らなかった。あちこちで、いろいろな検査を繰り返しましたが、CTスキャン MRI+MRA 24時間レコーディングホルター、心電図、各種エコー、平衡機能検査、胸部、頚部X線、勿論血液、尿検査も全て異常なし。
インドネシアでは、国立心臓センター(Harapan Kita)、たけのこ、Medikaroka、Siloam、SOS,PERTAMINA ANISSA,それらも、二回三回のところもありました。いずれも、的確な病名を指摘してもらえなかった。すべての科から、数値的には正常として見離された。心臓などはこの位の不整脈は誰にでもあることで、いちいち、騒ぐのは臆病すぎるとまで、言われた。ただし、竹の子とアニッサは神経安定剤を処方してくれたので、若干の効果はあった。
この間、ずっと私の手伝いをしてくれたのがお手伝いのマリアさんでした。彼女は運転免許を持っていたので、真夜中でもジャカルタの病院へ送ってくれたし、入院中は病院から学校に通ったりして、何時もそばにいてくれた。私の病気は別名、孤独恐怖症候群ともいいます。一人の時、色々な症状が出やすいのです。またそれが恐怖になると、なお、出やすくなる。マリアさんがいてくれてどれほど助かったか知れない。
日本では日本医科大成田空港クリニック、そして、静岡県立総合病院、耳鼻咽喉科、神経内科、循環器科、からは見離され、その代わり、神経安定剤のデパス錠0.5mgを処方してもらった、これがとんでもないことになった7月26日、就寝21:00前に飲んで寝た、27日朝 4:30目がさめた、その時から、ひどいことになった。薬が切れたリバウンドだった。息苦しい、両手足はしびれ、痙攣し、しばらく我慢しようかとも思ったが、ただごとではないと感じ、タクシーで県立病院の救急医療室に飛びこんでしまった。
これが、ラッキーだったというか。救急医療室に着いたとたん、ほとんど、意識がなくなってしまったが、医者の診断は過呼吸障害だという。血液中の酸素が多すぎ炭酸ガスが足りないという。呼吸をできるだけ止めるように言われた。紙袋を顔に被せられた。息苦しいのは酸素が多すぎるのに、一生懸命呼吸をしようとするから、なお、酸素が多くなってしまう。初めて知った。(インドネシアではこんな症状が何度もあって、其の都度、死の恐怖を感じた。)
間もなく、正常に戻った。血液検査、胸のX線写真も全く問題なし、その他もやはり、全部正常。明日の朝、総合診療科にかかるようにアドバイスされ、家に戻った。
翌日09:30 最後の砦である、勧められた総合診療科で受診した。袴田医師である。とにかく、「あらゆる、検査結果が正常。これだけ正常な人は珍しいくらいだ、90−100まで生きますよ」。と言われながら、出された、症状チェック表、
1 息苦しい2 目眩がする 3 頭痛がする 4 頭が重い 5 動悸が気になる 6 胸が痛む 7 目の乾き 8 唾液が減少(口の渇き) 9 寒気
10 手足がしびれる 11体のあちこちでちくちく感じる 12気絶はしないがしそうになる 13死の恐怖を感じる 14 他人と話しをしている時は症状が現れにくい
15 一人でいるのが怖い16 それらがおさまっても、それらに対する恐怖心。
17 音に敏感になる。18 脈が飛ぶ。
続いて、見せられたのが、生活状況、1 普段疲れを余り感じない。2 頭脳を常に使っている。3 スポーツは盛んにやる。 4 職場でストレスを感じるが逃げない。
全てが、私に該当した。典型的な、不安症候群(パニック障害)と断定された。「ぴったりの薬があります。主な症状は二週間程度でなおります。」しかし、薬は三種類あり、どれも90%の人に効くということで、まず、其の一種類目から試し始めました。
コンスタンという薬が劇的に効いた。気絶しそうになる事は全くなくなった。それだけでも、不安の90%は解消した。
現在は、パニックはなくなっています。でも、まだ、以前の恐怖が忘れられず、また何か気絶しそうになるのではないか何処にいても、なにをしていても不安です。
ほとんど発病前にもどっています。
症状がほとんど消えた一ヵ月後、完全帰国の為の手続きと、身の周りの整理の為にインドネシアへ戻った。一週間ほどの間、親しい方たちに挨拶を済ませ、2006年8月25日PT.KGSと完全に切れた。三人の代表者の元で9年間非常に充実していたが、四人目の代表者のヒラノが着任してからあからさまないじめが始まった。
そのために派遣された営業の専門家と聞いていたが、仕事を獲得できないし、獲得したわずかな仕事も、間違えて、大損の見積もりを出し、やればやるほど損を大きくしていたのに、本人たちは、大儲けをしていると思い込んでいた。早く、私に入場されると、そういうことが、全て、引き継ぎで明らかになってしまうので、わざと、無血開城を遅らせていると勘繰りたくなる。そういう会社が、解散する状態を書いてあります。今は解散したPT.KGSの日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。目からうろこになるでしょう。
ポンティアナックで高級ホテルのホテルカプアスの朝食です。インドネシアではめったに食べない高級朝食です。ツインベッドルーム(朝食付き)で三千円、一人1500円と言うことになる。私は果物とソーセージにご飯はほんの少し、コーンフレークを少々です。マリアさんはナシクニン(黄色いご飯)に鶏肉をボイルしたものと野菜いためのようなものを取った。赤いサンバルが添えてある、これを付けながら食べるのです。鳥肉に付けてある赤いケチャップのようなものは辛くない。テーマニス(紅茶)やブアブアハン(果物類)はこれの外側に置いてある。
パワーハラスメント 無知 無能
2010年02月18日
斜めからインドネシアを眺めよう 521(ジキル氏とハイド氏)
私の体験から、外向きに、妙に丁寧な口のきき方をする人、妙に腰が低い人、ざっくばらんに話をしない人の100%は内向きには、乱暴な口のききかたをする。外面と、内面は反比例する。これははっきりしている。例外は全くない。だから、妙に丁寧な人と一緒に仕事をしないようにした方がいい。外面で割合、礼儀知らずの様な、ざっくばらんの様な口のきき方をする人は、内面も同じである。反対ということはない。仕事を一緒にするならこういう人の方がいい。
私を怒った人は、インドネシアで四人です。その人たち全てが、最初は、非常に丁寧な言葉使いで、私に接していた。私を既に知っている人に対し、其の人は私を、持ち上げて紹介してくれていた。しかし、しばらくすると、私以外の社内の他の人たちに怒鳴りつけることが、多いことが分かってきた。その内容が、かなり、利己的で、自分が間違っていることに気がつかないで、ただ、強引に怒りをぶちまけているだけで、大変醜い状態になっていることにもきがついていない。
これは、何かあれば、必ず、私のところへも来るなと、予感する。そして、なにかで、ご機嫌が悪い時、我慢の堰が切れて、私に対しても怒鳴ってしまう。一度怒鳴ってしまうと、次からは、続けて怒鳴るようになる。そして、あからさまなパワーハラスメントに発展する。四人とも、全く同じパターンでした。
もう一人、若者で、私が手ほどきをし、技術を教え、インドネシアの色々な会社に工場見学ということで、私が運転して何十か所もつれていったり、休みの日には、ドライブに誘ったり、ゴルフで車が無いときに私が送り迎えをしたり、数え切れないほど食事やカラオケで私が払ってやったり、彼のために何時間使ったか、お金をいくら使ったか、何時間待たされたか、分からないし、其の事を何とも思っていなかった。
子供以上に面倒を見ていたが、其の若者は、私に捨て台詞を言って日本へ、帰って行った。「家に食事を誘って、行くと約束した時、なかなか来ないから、電話をしたら、『寝ていて、忘れていた、御免』と言っただけで、言い方がきにいらない。約束は守れ、」でした。私はそのことを全く覚えていなかったが。彼はいつからかずっと根に持っていたのでした。
其の彼は、インドネシア人の目上の人にも、いつも怒っていた。どう見ても、彼が言っていることが通じていなかったのに、「分かったと言っただろう、分かってないなら、かからないと言えよ」と、怒っていた。それが、続けば、インドネシア人からこの若造が、と、恨みを買う。彼は、家族を誘拐するぞと、脅迫を受けた。私は、脅迫をしたインドネシア人が誰か知らないが、ありそうなことだ、こいつではと思った。彼の運転手は、いつも、運転の仕方が気に入らないと怒鳴られていた。それも、殴りかからんばかりの剣幕である。恐れを成して、二、三カ月で辞めてしまう。私が、運転手になっても、キット怒鳴るのでしょう、そういう人は。ね、君のことですよ。
そして、技術に優れた人は、話し方はぶっきらぼうで、あまり、外と内と態度は変わらない、上と下との話し方にもあまり差はない。私は、典型的な技術者ですから、上だからと思って、妙に気を使って話をしたことはない。下に対しても怒ることはない。上からも下からも、怒ってくれば、そういうときは、その人間の考え違いで、冷静らを欠いていることが100%なので、私も黙ってはいないで怒り返すが、冷静さを失うことはない。上からでも下からでも、私に対して冷静さを欠いて、説得力無く怒ってくる人は、本当に可哀そうだと思う。能力が低い人で、経験も実績もない人です。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
Bekasi Cyber Parkブカシバラットインターを出て左側、モールメトロポリタンの向かい側、ブカシでは最大のIT機器ショップです。オリジナルのウィンドーズオフィスのソフトを買いに行ってきた。ワード、エクセルなど最低で80万Rp(八千円)でした。
2010年02月16日
斜めからインドネシアを眺めよう 519(社内の人間関係)
2007年後半に、PT.K社がインドネシアに在っても意味が無いという話が起きだし、閉じるなら、買いたいという会社があり、K社長に頼まれて、私が仲介をした。2008年初めから交渉が始まったが、結局、現地の例の下手ノという代表者が、明け渡しのための、手続きは遅らせる(意識的だが、能力的理由で自然でもある)し、それも、間違いが多かった。それに、買い手の会社の人が、何回かPT.K社を訪問しているが、自分でも、何時になるかわからないと言っていたし、目標日も明らかにできなかった。おまけに、買ってくれなくてもかまわないような横柄な態度で接したという。買い手の会社の人たちが、あの人では、会社を潰すはずだよ、と、言っていたし、あの人と、話したくないと言っていたし、太田さんの病気の原因が分かったよと、妙なところで同情してくれた。
下手ノのもたもたぶりで、交渉は今中断せざるをえない状態になっているが、まだ、買う方(PT.NANBU)はキャンセルしているわけではないので、そのことも確認しながら、明け渡しが完了する日を待っている。そのあとに何社かから買いたいという希望は入っているようですが、優先権は私が仲介したNANBUが持っている。
既に、最初の交渉から、二年過ぎようとしている。いくら底なしの脳なしでも、そろそろ、目標日くらいは本社に示して欲しいものです。自分がインドネシアでのんびり釣りができるからと言って、いつまでも、知らん顔をしていないでほしいものです。多くの人の邪魔をしていることに気が付いてください。
もう一度、この文章の事実について、反論がある人は、ぜき、ご意見を聞かせてください。
私のパニック障害は、悪くなる方向ではなく、良くなる方向に、常に向かっている。薬を減らす方向でいて、今の、仕事の忙しいこともあって、時には、パニック障害を忘れていて、薬を飲むのを忘れることがある。三か月分の薬が、五カ月位は持ちそうだ。
私のブログを、ぜひ、ジャカルタ新聞やジャカルタ日本大使館、日本領事館、ジャカルタ日本人会の方々にも読んでいただきたいと思う。弱い人、自分で行動できない人なら、自殺でもしかねない状況だと思います。
読んだ人で、これらの人々と知り合いの方は、こういうことがあるということを伝えていただきたいと思います。下手ノは領事館の人と釣り仲間になったと、妙な自慢をしていたが、そういう人脈があるなら、会社解散についても、私の病気に対する自分の行動について相談したらいいと思うのだが、とにかく、そういうことは思いつかない。
インドネシアで、うつ病になった人を何人か知っています。そして、何人かから相談も受けています。それらの人は、全て、全てです。三四人の日本人の同僚?からかなり厳しいストレスを受けていた人です。私が、パニック障害になる前も、その会社の事情を聞いてほしいと、話をして人が何人かいました。技術的にも、人間性でも優れている人たちです。そういう人がパワハラの対象になりやすいのです。現地人や部下からは尊敬される人は同僚や上司からうとまれるのです。上司や同僚の能力が低いほど、排除の対象にされるのです。
そして、その人たちは全て、間もなく、インドネシアから去りました。
14年間の間に、残念ながら、自殺した人を三人知っています。全員がうつ病と思われます。その時、日本人社会で話題になりますが、間もなく、忘れられてしまいます。多く
の、人は数年で入れ変わってしまうからです。
ということで、私のパニック障害にかかわる話と其の時の環境についての、物語は、ひとまず、終わりますが、自殺願望は一度もなかった私はうつ病ではなかったので良かったと思います。
バリやロンボクで多く栽培されているタバコ。オドンオドンという移動遊具です。
田舎の路地に現れます。
2010年02月07日
斜めからインドネシアを眺めよう 510(一人でなくて良かった)
今から思い起こすと大変な試練の日々でした。人の手助けだけを考えて行動している私が、強烈なパワハラの対象とされた事実を一週間にわたって書きます。同じような被害の体験者も多いと思う。今は解散したPT.KITAGAWAの日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。人生が開けます。
現在 発病以来約三年半近くになります。すでに、ほとんど、普通に戻っています。原因がはっきりし、其れに合った薬を飲み続けているからです。病名はパニック障害(不安症候群)です。原因は過度の筋肉疲労と脳の使いすぎと神経の使いすぎだそうです。神経があちこちで誤動作をしてしまう立派な病気です。
インターネットで検索すれば詳しく知る事ができます。
こんなに分けが分からない大変な病気があったとは、全く知らなかった。あちこちで、いろいろな検査を繰り返しましたが、CTスキャン MRI+MRA 24時間レコーディングホルター、心電図、各種エコー、平衡機能検査、胸部、頚部X線、勿論血液、尿検査も全て異常なし。
インドネシアでは、国立心臓センター(Harapan Kita)、たけのこ、Medikaroka、Siloam、SOS,PERTAMINA ANISSA,それらも、二回三回のところもありました。いずれも、的確な病名を指摘してもらえなかった。すべての科から、数値的には正常として見離された。心臓などはこの位の不整脈は誰にでもあることで、いちいち、騒ぐのは臆病すぎるとまで、言われた。ただし、竹の子とアニッサは神経安定剤を処方してくれたので、若干の効果はあった。
この間、ずっと私の手伝いをしてくれたのがお手伝いのマリアさんでした。彼女は運転免許を持っていたので、真夜中でもジャカルタの病院へ送ってくれたし、入院中は病院から学校に通ったりして、何時もそばにいてくれた。私の病気は別名、孤独恐怖症候群ともいいます。一人の時、色々な症状が出やすいのです。またそれが恐怖になると、なお、出やすくなる。マリアさんがいてくれてどれほど助かったか知れない。
日本では日本医科大成田空港クリニック、そして、静岡県立総合病院、耳鼻咽喉科、神経内科、循環器科、からは見離され、その代わり、神経安定剤のデパス錠0.5mgを処方してもらった、これがとんでもないことになった7月26日、就寝21:00前に飲んで寝た、27日朝 4:30目がさめた、その時から、ひどいことになった。薬が切れたリバウンドだった。息苦しい、両手足はしびれ、痙攣し、しばらく我慢しようかとも思ったが、ただごとではないと感じ、タクシーで県立病院の救急医療室に飛びこんでしまった。
これが、ラッキーだったというか。救急医療室に着いたとたん、ほとんど、意識がなくなってしまったが、医者の診断は過呼吸障害だという。血液中の酸素が多すぎ炭酸ガスが足りないという。呼吸をできるだけ止めるように言われた。紙袋を顔に被せられた。息苦しいのは酸素が多すぎるのに、一生懸命呼吸をしようとするから、なお、酸素が多くなってしまう。初めて知った。(インドネシアではこんな症状が何度もあって、其の都度、死の恐怖を感じた。)
間もなく、正常に戻った。血液検査、胸のX線写真も全く問題なし、その他もやはり、全部正常。明日の朝、総合診療科にかかるようにアドバイスされ、家に戻った。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。MM2100内の場所の地図を加えました。
果物はCimpedakです。今が旬です。臭いはドリアン、姿はナンカ、味は独特の甘さです。
2009年12月21日
斜めからインドネシアを眺めよう 462(だめだ、こりゃ)
私が、辞める時の社長が完全に常務派で、今、会社の解散の手続きや申請をしているところらしいが、何年かかったら、閉じることができるか見通しがつかない状態で、何もしないで、インドネシアにいる人です。気楽で本人は満足していることでしょう。とにかく、何もしなくていいのですから。「何もすることがないから、帰りたいのだが、本社から帰国命令が出ない」とご本人は、会う人に言っているが、本人から、帰国希望を出していないと、本社人事の人は云っている。もっと上に言っているのかも知れませんが、確認はできていない。
Iという社員がインドネシア人と結婚式を上げて結婚したという話を、社長が知らないなら知っておいて貰ったほうがいいと思って、気を利かせて報告したら、その社長さん、即刻、本人に、私がそう云っているが本当か、と、聞いた。本人、其のとおりというわけがない。否定した。そこで、社長も彼の否定を信じて、私を逆に悪い噂をまいていると評価した。実際はもちろん二重結婚していて、日本の本社に知れたり、奥さんに知れたりしたら、大ごとになってしまうので、なお、私へのパワハラが強烈になったのでした。白のものを黒と云っている典型だった。結婚式に招待され立ち会った日本人数人から、私に話があったことでした。
社長さん本人は自分の情報網がないので、本当かどうかを自分でチェックする能力がない。このことは、何のことにも通じる。税務署、警察、税関、などなど、何となく自然に入ってこなければならない情報が彼には入ってこないし、彼からも必要と考えていないのか、能力がないので、知らないことが多い。私が、分けが分からない病気にかかった時も、同じだった。
知っている英語はほとんどないが、I君の口癖、“スキルが足りない”、“スキルの問題だよ” とインドネシア人に怒鳴っていた。自分のスキルがかなり低い証拠に、赤字か赤字に近いような仕事を細々と取っただけで、何も会社に貢献せず、むしろ、暗い雰囲気を社内に作り、今は、閉鎖した会社を去って、タイの工場に行った。I君、自分のスキルや実績を冷静になって、考え直した方がいいと思いますが。
こんな会社だから、当然、解散の運命だった。自分達が原因とは思っていない。
こんな会社は他にもある。その気になって、各工業団地を巡って見ると、閉じてしまった会社が沢山あることに気づく。
日本の本社は、ともかく、誤りを認めて、手を打った。認識が遅かったが、そのままにしておくより、遥かに賢明だったと思う。40年以上かかわっている会社ですし、それだけ係わりが続いている人間は、もう、少ないと思う。世代が交代する時期が近いと思いますが、遠くから見詰めています。
2009年12月20日
斜めからインドネシアを眺めよう 461(困ったサン)
“鉄は熱いうちに打て“という言葉も、意味も、その理由も、子供のころから知っていた。知らない大人は、どうしようもない人だと、思っていた。
“鉄は熱いうちに打て“という常識というか諺と云うか当たり前なことというか、このことをあなたは知っていますか。
今でも、これを知らない人は、かなり、いろいろな意味で程度が低い人だと思っている。
子どものころ、家から安倍川より50mの近所に農機具を主体に作っていた鍛冶屋(この仕事を知っている、若い人も少なくなっていると思う)があった。おやじさんが真っ赤に焼けた鉄をトンテンカントンテンカンとハンマーで叩いて、ちょっと冷めるとまた足で鞴(ふいご)に足で空気を送りながら、鉄を真っ赤にする。加工している仕事を見ながら、大変な仕事だなと、子供のころ感心していたことがある。だから、誰か、忘れたが、大人が“鉄は熱いうちに打て“といった時、すぐに納得した。鉄に限らず、まだ、頭脳が柔らかい時、加工しやすい時に、若いうちに、鍛えましょう、ということも、納得した。
手遅れの大人が多いことを外国で認識させられた。
インドネシアのA社のころです。本社のNO2のO常務が来ていた。彼が50半ばだったと思う。現場で、大声で、怒鳴っている。熱いうちに何故作業をするのか、危ないじゃないか、冷ましてから作業をするのが常識だ、誰が、こんな方法を指図したんだ。インドネシア人担当者は震えあがっていた。お前らはバカだとかどうしようもないやつらだとか、日本語で怒鳴っている声が、聞こえてしまっていて、本当にみっともないと恥ずかしく思った。彼が完全に間違っていることを言っているのは明らか。黒いカラスを白と云えといっているようなもの。
そこで、私は、当時のPT.A社の社長SSさんに、常務が、怒鳴っていることは、正反対ですよと、教えてあげた。その社長は一年ほど前から、A社に海外要員として入っていた人で、常務派までは行っていなかった。それでも、その人もこんなことを知らなかったようで、私が正しいかどうか、確認できない。彼はその作業の標準書を確認した。常務は作業標準書と真反対の方法でやれと怒鳴ったことを、納得してくれた。常識を彼は知らなかったが、常務派になっていなかったのが幸いした。もし、常務派だったら、私が言ったことは、正しいかどうか確認せず、私が、常務を批判しているとだけ報告したでしょう。
この常務は、今はA社と何の関係も無くなっている。
ラフレシアではありませんBunga Bangkai (Amorphaphollus Titanum)ボゴール植物園のブンガバンカイは
ブンクルから移植したものです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage041.html
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage045.html
“鉄は熱いうちに打て“という常識というか諺と云うか当たり前なことというか、このことをあなたは知っていますか。
今でも、これを知らない人は、かなり、いろいろな意味で程度が低い人だと思っている。
子どものころ、家から安倍川より50mの近所に農機具を主体に作っていた鍛冶屋(この仕事を知っている、若い人も少なくなっていると思う)があった。おやじさんが真っ赤に焼けた鉄をトンテンカントンテンカンとハンマーで叩いて、ちょっと冷めるとまた足で鞴(ふいご)に足で空気を送りながら、鉄を真っ赤にする。加工している仕事を見ながら、大変な仕事だなと、子供のころ感心していたことがある。だから、誰か、忘れたが、大人が“鉄は熱いうちに打て“といった時、すぐに納得した。鉄に限らず、まだ、頭脳が柔らかい時、加工しやすい時に、若いうちに、鍛えましょう、ということも、納得した。
手遅れの大人が多いことを外国で認識させられた。
インドネシアのA社のころです。本社のNO2のO常務が来ていた。彼が50半ばだったと思う。現場で、大声で、怒鳴っている。熱いうちに何故作業をするのか、危ないじゃないか、冷ましてから作業をするのが常識だ、誰が、こんな方法を指図したんだ。インドネシア人担当者は震えあがっていた。お前らはバカだとかどうしようもないやつらだとか、日本語で怒鳴っている声が、聞こえてしまっていて、本当にみっともないと恥ずかしく思った。彼が完全に間違っていることを言っているのは明らか。黒いカラスを白と云えといっているようなもの。
そこで、私は、当時のPT.A社の社長SSさんに、常務が、怒鳴っていることは、正反対ですよと、教えてあげた。その社長は一年ほど前から、A社に海外要員として入っていた人で、常務派までは行っていなかった。それでも、その人もこんなことを知らなかったようで、私が正しいかどうか、確認できない。彼はその作業の標準書を確認した。常務は作業標準書と真反対の方法でやれと怒鳴ったことを、納得してくれた。常識を彼は知らなかったが、常務派になっていなかったのが幸いした。もし、常務派だったら、私が言ったことは、正しいかどうか確認せず、私が、常務を批判しているとだけ報告したでしょう。
この常務は、今はA社と何の関係も無くなっている。
ラフレシアではありませんBunga Bangkai (Amorphaphollus Titanum)ボゴール植物園のブンガバンカイは
ブンクルから移植したものです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage041.html
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage045.html
2009年12月13日
斜めからインドネシアを眺めよう 454(解散の原因者)
タイの見も知らない多分SU君だったと思うが、いきなり私に失礼な話し方で「消極的人間だ、自分が売るから、一緒にやりましょうよ」とのたまった。上から物を言っていた。「は、消極的と言われたことは初めてで、どこのだれからも知らない人から、そう言われたことは勿論始めてだ、知っている人は、積極的過ぎると、言う人が多いですよ」と返事した。「自分で、自分のことを積極的人間と言った人に始めて会った」とその人から、言われてしまった。未だ、会ったこともないのに、である。
すごい自信家で、失礼な、人がK社にはいるものだと思った。全く驚かされた。その後、彼から、何の連絡も入らなかったが、半年後くらいに、インドネシアの会社へ来ていて、K社の日本人と話をしているところに私が通りかかった。「タイのSUです」と、自己紹介したが、以前の失礼な剣幕については、まったく、触れなかった。
こういう人は、人を評価判断する根拠はどこに求めるのでしょうか、気に入られるにはどうしたらいいのか、彼の部下になった人は、困ってしまうことでしょう。まだ、タイにいるようだが、今は、インドネシアの射出の面倒を見ていて何もしなかったIという人が、日本に帰れず、タイ工場に移ってSUとコンビで、何かをしているやら、いないやら、似たり寄ったりの名コンビで、程度が同じだから、仲良くやることでしょうが。インドネシアと同じで、タイで製造する意味はないまま続くでしょう。そう遠くない間にタイ工場も解散になることが私には見える。
私が評価すれば消極的というより、仕事を自分ではできない、手本も見せられないで、やらせて、できなければ怒るばかりの、何かを成し遂げようという、知識も動きもない、単なる元常務の顔色を窺って、仕事をしている振りしているだけのかわいそうな人達です。
K社にとってもKGS社にとっても、この上ない話で、独占的にエスカレーターのサイドレールの納入ができる。他の新しい仕事も獲得できる大チャンスだった。それを、感情だけで、パーにしてしまった。象徴的な話で、大きな損失を与えた責任は大きい。それを私の責任にした。PT.KGSを解散に追い詰めた人たちは明らかである。
私を感情的に攻撃した人には反撃をします。
2009年12月02日
斜めからインドネシアを眺めよう 443
師走ですが、その雰囲気全くない、クリスマスセールが始まり、ショッピングモールの綿のトゥリーが目立つ程度です。
先々週木曜日にやっと、見つけて、会うことができたSiloam病院の精神科の医者が処方してくれたFluoxetine 20mgと,Alprazolam 0.5mg 朝食後、夕食後にそれぞれ一錠飲む、というのは,残念ながら、私の症状には効き目がないようです。タケノコのSertraline 50mgとAlprazolam 0.5mgのほうがましである。
この頃の症状は、2006年にパニックになり始めた時に似て来てしまった。日本からの、パキシルとコンスタンを飲めば症状は完全に消えて、二三日は消えたままになるが、もう、四回分しか残っていない。インドネシアで手に入れた薬を飲みながら、ひどいときだけ日本からの薬を飲んで、県立病院を予約した、年末25日まで、なんとか、持たせたい。
しかし、脈が一瞬抜けて、くらっとして、立っていられなくなっても、もう、その状態に慣れてしまっているので、パニックにはならない。すぐ病院へ駆け込もうとは思わない。命にかかわることは100%無いと思っている。問題は、頭がしばらく重い状態がのこり、それが収まるまで、じっとしていなければならないことです。5分ぐらいで、普通に戻ります。ひどい時で、一日二回です。寝ているときは知りません。
自分でもやらなければならないことがたくさん残っているし、他の人たちからも、頼りにされている。もう少し、両方ともから解放されればいいと思っているくらいで、自分が、誰からも必要とされていない、生きている価値がない、などとは微塵も思わない。だから、うつ病ではないことは分かっている。しかし、うつ病は、誰かからの一言で、がらっと、考え方が変わって、直ってしまう、らしい。パニック障害も、誰かの一言で治ってほしいものです。
私のための、誰かの一言になるかどうか、K社の常務が解任されたことを初めて知った。これで、社内のセクハラ、パワハラが無くなり、風通しがいい、社風になるでしょう。強く買いです。
パラウントベッドさんのカレンダーの今月の写真はパンガンダラン東海岸のサンライズです。私の自慢の一枚です。
2009年08月28日
斜めからインドネシアを眺めよう 347
私の説を覆す、データ、統計をもっている、この道の専門家がいらっしゃったら、ぜひ、世に出してください。報道機関も、そこのところを解説する情報を提供してください。
歪の増加速度と緩和速度についてのデータと今後の予想、また、データがどういう数字になった時、その地点がいつどうなるのか。もうひとつ、計測器を設置した時の歪は揺れ戻しを起こしていっぺんに緩和する大地震を起こすまで100%の歪とすれば、何%になっていたのでしょうか。あと、なん%歪が増えれば大地震が起きるのでしょうか。そしてそれは、数値的にどういう単位であらわされるのでしょうか、Cmでしょうか、Kgなのでしょうか。そういうことを知っている小市民が、いったい、何人いるのでしょうか。私は知りません。
規則性のあるものなら、データを増やせば規則性がはっきりしてきますが、規則性のないものはデータを集めれば集めるほど規則性がないことが明らかになります。これが地震だと思いませんか。推理統計学の専門家のかたがたも意見を出してください。
インドネシアではNIAS辺りで頻繁に地震が起きています。私の写真集にあるように経験的に高い場所海抜100m付近に頑丈な高床式で骨組みをした家屋にしています。ここ、50年以内に作った、海岸付近の道路はそのことを参考にして作っていないので、橋が落ちたり、道が崩れ落ちたり、土砂で埋められ足りの被害を繰り返して受けていますが、伝統的な家屋付近の家も道も何のダメージも受けていなかった。
新しく発行された2000Rp札 銀行へこのお札を求めて殺到している。レバランの時に、一族の子供たちにお年玉を上げるためです。
2009年08月07日
斜めからインドネシアを眺めよう 326
最近突然売れだした中年歌手のSURIPという人が心臓麻痺で亡くなった。インドネシアにとってはかなりショッキングな出来事です。TAK GENDONGというタイトルの歌で、Ke mana mana Tidur Bangungと繰り返し、簡単で歌いやすい。世相を表していると同時に、歌手の人柄が愛された。いつも、ワッハハと笑っていた。子供にも愛された。
お盆が近い。だからというわけではないが、子供のころから、玄奘三蔵訳魔訶般若波羅蜜多心経をいろいろな機会に坊主と一緒に唱えていた。勿論、意味は全く分からない。しかし、其の調子というか、抑揚が好きで、気に入っていた。三蔵法師は孫悟空で知っていたし、般若も、般若のお面でないことも知っていた。しかし、全体どころか、魔訶般若波羅蜜多の連続の意味は知らなかったし、知ろうともしたことはなかった。
サンスクリットで波羅蜜多ハーラムイターとは彼岸に渡る。摩訶不思議のマカは大きい 般若は仏の知恵ということで、続けると「大いなる智慧の完成をする核心の教え」ということになるらしいと知ったのは学生の頃でした。勿論、内容についていちいち、勉強をしたことはないが、大体、どの仏教の宗派で共通することは、色即是空 空即是色のように、空とか無が基本になっているので、この中に書かれていることもそんなことだろうと想像していた。多分、当たっていると思う。私が、人間が生まれること死ぬことについて、無から生じて無に帰る、と書いていたこととそう違わないことも分かっている。釈迦も私もそう考えは違わない。勝手に思っているわけで、別に熱心な仏教徒ではないが、子供のころからの環境の影響なのでしょう。
それにしても、子供のころも、いまも、ギャーテーギャーテーハラギャーテーの行になるともう終わりということもあって、妙に声を大きくした覚えがある。意味が分からなかったが、なぜ、ギャーテーなどと云うのか面白かった。お坊さんが、真面目な顔をしてギャーテーギャーテーと唱えているので、面白かったという話でした。羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦。彼岸に全く生けるものよ。菩提娑婆訶。悟りよ 幸あれ。本当は、ありがたいお教である。
ジャカルタのムリアスナヤンで日本からのお客さんとミーティング、会社設立の準備について話し合った。スケジュールの確認が主で、やるべきことは、すべて順調に行っている。
残念なことが再びあった。以前住んでいた場所でも、バッテリーのコードが切られていたり、燃料を送るパイプが切られていたりしたことがあった。その時も犯人に心当たりがあった。昨日夜、車のタイヤの一つの側面にナイフで刺した様な切り傷が二か所ありパンクされられていた。完全に空気が抜け、修理を出来ないので、新しく買うしかない状態だった。完全に嫌がらせである。やった人、病気でしょう。気の毒に思う。しかし、再発防止という意味で、気の毒な人を増やさないという意味で、セキュリティと警察に届けた。また、超小型暗視カメラを設置した。
2009年08月01日
斜めからインドネシアを眺めよう 320
記念すべき日だった。大盤振る舞いの食事会をしたようです。今日でその会社の実態は無くなった。完全にクローズに向けて手続きが始まる。本当は閉めるという気配を感じた時から準備が始まっていなければならないのだが、気が利かないので、そんなことは思いもよらないことで、これから、本社の指令で、一つ一つ、しがらみを消して行く行程に入ると思う。思うであって、彼らのことだから、いつまでたっても行程に入らないかもしれない。早く閉じれば売り先まで決めることだできたのに、今となっては、すべてを、だいなしにしてしまった。
参考のために書いておきますが、EPTE(外国と同じ扱いで関税に関し特典が与えられる)の会社が撤退する為に、自分でやらなければならないことは、
1 組合と退職金の倍率で交渉、妥結し、期限で全員を解雇すること。これは私が組合にアドバイスしたことが功を奏し、解決した。感謝してください。もともと、従業員は早く、この会社から、おさらばしたいと思っていたのです。早く、次の仕事を探したいと思っていたのです。今日、終わった。
2 EPTEの特典を使って輸出している、インドネシア国外やインドネシア内でもEPTEの会社との関係を円満に切ること。
3 EPTEの解消、2が終わるのを待ってこれをするのですが、待たずに、取り消し申請をできるかどうかが速度に関係してきます。2の利益は大したことはないのだから、とっくに取り消してしまえばいいのです。自分達の無駄使いの方が大きいことを知らばければならない。
4 国内売りの製品の作り先、引き受け先を交渉して紹介する。これが本筋です。商業道徳に則った方法です。ですが、
これは、おそらく、できないでしょう。しないでしょう。止めますと、期限を云って、そのまま、客に放り投げるでしょう。押出しのお客さんにそうしたように、です。
責任をまっとうする能力がないから、そうして逃げてしまうしかないでしょう。
5 これは、逃げられない。ベア ダン チュカイの関係です。過去の分までほじくり返されて、関税と税金に関しては追及されるでしょう。理屈ではなく、誠意と決断の問題です。無知だから、本人は交渉ができないので、過去の人やインドネシア人スタッフの責任にして言い訳をしなければどうにもならないほどの要求をされるでしょう。装置の処分も簡単ではない。
6 工業団地オフィスとの契約解消。これなどは一年ほど前から分かっていることなので、秘密裏に段取りを聞いておけばいいものを、まだ、云っていない。
7 現地妻や恋人がいるなら、そのしがらみも円満に解消しなければなりません。人によってはこれが一番難しい。裁判沙汰にでもなった国外に出られなくなります。経験者が多いはずです。よく聞いて、解消しなければなりません。
結局、これから、一年半以上はかかるでしょう。その間に、最低5000万以上の費用を浪費するでしょう。担当者によってはこれをほとんどゼロに出来たはずです
2009年07月26日
斜めからインドネシアを眺めよう 314
日本でNHKを見ていたら、こんな病気のことを特集していた。インドネシアでこういう人に沢山出会った。会いたくて会ったのではなく、一緒に仕事をするように与えられた人達です。私が選んだ人ではないし、私の仕事には向いていないからといって、追い払うこともできない関係の人達でした。
私がやっている仕事には、全くふさわしくない人です。一つの仕事をまじめにこつこつやる、という人は駄目です。与えられ仕事から、いつもはみでようとする人でなければなりません。臨機応変でなければなりません。作業標準を疑問に思う人でなければなりません。以下、引用したものです。こういう人同士が同じ職場だと、私のようにどんどん仕事をしてしまう人間は阻害される。こういう病気の人がいるということを理解してほしいと、締めくくっていたが、冷たいようだが、私にしてみれば、本人達が自覚してほしいと思う。また、自覚してもらって、人を使う立場になれないことをはっきりさせなければならないと思う。使う人の立場、使われる人の立場を考えれば、当然だと考える。経験させられた私の切実な思いです。
こういう人を、一定の仕事に安く使って、利益を上げようという会社は、使うが、一般的に創意工夫が命の日本企業では、使えない。もし、気がつかずに雇ってしまった会社は使い道に困る。そういう人だけ集めて、単純作業をさせるしかない。
大人のはずのあなた、心当たりはありませんか。心当たりがあるなら自覚してください。
以下はネットで公開されている説明から抜粋したものです。
コミュニケーションの問題
アスペルガー症候群の人の話し方はちょっと変わっています。話すことができないわけではありません。おしゃべりなアスペルガー症候群の子どもも沢山います。でも話し方が少し変わっています。一言でいえば会話のやり取りが長続きしないのです。
話し方が回りくどい、曖昧が苦手、細かいところにこだわる
アスペルガー症候群の子どもは話し方がとても回りくどいことがあります。「今日はどうやってここに来ましたか?」の質問に対して「朝8時3分に家を出ました。それから市営バスの10番に、バス停から乗りました。ちなみにそのバスは低床型の青いバスでした。10番のバスを__駅前でおりて、そこから__線の準急に乗りました。×駅で急行に乗り換えて__駅の3番線の後方のホームでおりて云々」といった具合です。どれが大事な情報でどれが枝葉末節かうまく選べないのが一つの理由と思われます。あまりくどくど言われると、言われる方はからかわれているのかと思いがちですが、そうではなく本人は一生懸命なのです。
曖昧な聞き方をされると意味がつかめないようです。久しぶりにあったので「最近どう?」と何気なく聞くと「どうって、何のことですか?元気かという意味ですか?勉強のことですか?友人関係のことですか、それとも家族との関係を聞いているのですか?」などと細かく聞き返されることがあります。その場で何が話題になっているか、言外の意味を汲み取ることが苦手なのでどうとでもとれる曖昧な質問には答えることが難しいのです。問いかけはなるべく具体的にする必要があります。
人びた難しい言葉、場にそぐわないほどの丁寧語を使う
子どもなのに「ちなみに」「ところで」「逆にいえば」「おそらくは」などといった大人びた言葉を使うことがあります。今日の昼ごはんは何を食べましたか?と聞かれて「米飯と魚肉それと緑黄色野菜」と答えたり、手伝って欲しいという意味で「援助が必要です」と言う子どももいました。クラスで配布されたプリントを集めるときに「没収します」と言うなど間違った言葉の使い方もみられます。家族や同級生に対しても「ですます調」の丁寧語や文章体で話したり、テレビのアナウンサーのように正確すぎる話し方をすることもあります。丁寧語の中に不自然なほど乱暴な若者言葉が交じりこむ小学生もいました。兄の影響で乱暴な言葉を覚えたのですが、全体は丁寧語でしゃべるので非常な違和感があります。本人はあまり違和感を感じていないのです。基本的にアスペルガー症候群の子どもは友人同士の会話よりも、テレビや本などから会話を学ぶことの方が得意のようです。そのために、こういった現象が生じるのだと考えられます。辞典で覚えた難しい熟語やことわざを不自然なほど頻繁に使うこともあります。「やめて」という意味で「それは言語道断だから断固拒否します」とか「せいてはことを仕損ずると言いますから、そんなことをしたら弱り目にたたり目です」といった具合です。男の子なのに女の子のようなしゃべり方をしてからかわれる子どももいます。先生に指されて答えられず「あら、私こまっちゃったわ」といったようにです。母親と一緒にいることが多いため、母の言い方をそのまま模倣しているのかもしれません。大抵の子どもは男女の言葉の相違を理解してそれぞれの性別にあった言葉使いをするのですが、アスペルガー症候群の子どもはそういった使い分けが苦手です。
一方的でわかりにくい話し方
アスペルガー症候群の人は自分の関心があることを、相手の興味におかまいなしに一方的に話す傾向があります。自分の関心のあること(機関車やコレクションなどの趣味のこと)で頭が一杯だったり、関心のあることは他の人より知識が豊富なので話しやすい、相手の反応をモニターせず相手が迷惑そうな表情をしていても気がつかないことなどが関係しているのでしょう。話が飛びやすいのもアスペルガー症候群の人の話し方の特徴ですが、これも相手に理解しやすいようにという配慮が苦手なために、自分の関心の赴くままに話題が変わっていくのかもしれません。話し相手の予備知識を考慮していないため唐突な印象を受けがちです。
言外の意味を汲み取ることが苦手
言葉の裏の意味を理解することが難しいことが多いです。家に電話がかかってきて「お母さんいますか?」と聞かれ「はい、います」と答えます。そのままだったので相手が「お母さんを電話に出してください」と言うと「お母さんはいますが、今家にはいません」と答えました。最初の質問に対して子どもは母がいるかどうかについて答えたつもりなのです。慣用表現も混乱の一因になります。「先生に叱られてお母さんは耳が痛かった」と言われて、親切にも鎮痛剤を持ってきてくれたりします。「今日のご飯はお鍋にするね」と伝えると、あわてて「スパゲティがいい」と言った子どももいます。その子は実際に料理が出されるとおいしそうに食べて、食後に「これが鍋を食べたっていうことなの?」と確認をしました。
皮肉やほのめかしの理解も難しいようです。よく学校の先生が「そんなことしたら幼稚園の子だよ」と注意しますが、本当に幼稚園にいくのだと思って不安になったり、幼稚園にいけるんだと思って喜んでしまったりします。「そんな子はうちの子じゃありません」と叱られて戸籍を調べようとした子どももいます。困った行動をしているときに「それはちょっとね・・・」と言われて、ちょっと、後の言葉を延々と待っていたりしがちです。
言葉の間違った使い方
アスペルガー症候群の子どもは一見正しく話しているようにみえても、よく聞くと微妙な文法的に間違った話し方をすることがあります。助詞がところどころ抜けたり不正確な使い方だったり、受身文で混乱したり、「そこ、ここ」「もらう、あげる」「いく、くる」など視点の違いで異なった言葉を使う表現を間違えたりしがちです。あるアスペルガー症候群の子どもは良いことを聞いても悪いことを聞いても「なあんだ」とつまらなそうな表情で受け答えをしていました。「なあんだ」という相槌はどのような場合でも使える表現だと覚え間違いしていたようです。
思考を言葉に出す
小さな声でひとり言を言ったり、考えていることを声に出して言うことがあります。また相手の言ったことを小声で繰り返した後に返事をする人もいます。
分かりにくい話し方,訥々とした話し方,駄洒落を好む
会話の内容よりも「音声」の方に関心があって、やたらと語呂合わせの駄洒落をいう人もいます。
しゃべるほどには理解していない
アスペルガー症候群の子どもはよくしゃべるし、難しい言葉も知っているので、言葉を理解する能力も高いのだろうと思われがちです。でも、話すことより人の話を理解することの方が苦手な子どもも多いのです。子どもの理解力の範囲内で話しかけるように注意しないと、本当はよくわかっていないのにわかったつもりになってしまう子どもがいます。言葉そのものの理解が乏しいことも多いのですが、相手の話以外のことに気がそれてしまい、話の筋が追えないこともあります。注意が相手の言葉よりも、相手の身に付けているアクセサリーとか相手の髪型などといった、その場では本質的でないことに気がとらわれたりしがちなことも一因です。また、相手の話が「見えなく」なったときに聞きなおしたり、さりげなく確認したりといった「会話の技術」も未熟なことが多いのです。
ジェスチャーや表情、距離のとり方などの言葉以外のコミュニケーションの問題
これまで主に言葉を使ったコミュニケーションの特徴について述べました。でもコミュニケーションは言葉だけで行うわけではありません。何気ない仕草やジェスチャー、表情、視線の向け方、相手との距離など言葉以外の要素もコミュニケーションに重要な役割を果たします。このような言語以外のコミュニケーションを非言語性コミュニケーションといいますが、アスペルガー症候群の人は非言語性のコミュニケーションも独特のことが多いのです。
私たちはしゃべりながら自然に体を使ってジェスチャーでも表現しています。幼児期や小学生くらいの子どもで言葉でコミュニケーションできるようになると、言葉だけでコミュニケーションをはかり、自然な体の動きがみられないことがあります。また視線の合い方も独特で、相手の顔をみないで話したり、逆に相手の顔をしげしげと見つめすぎて奇異に思われたりします。思春期以降になるとジェスチャーが大げさすぎて目立ってしまうこともあります。ある若い女性は質問に答えた後で、「ウッフ」とまるで字を読むかのように声を出して笑った後で首を横に傾げます。自然に出ると可愛らしい振る舞いなのですが、あまりに芝居じみてとってつけたようなので不自然に感じてしまいます。またある青年は家で料理を作る時の様子を聞かれて、「パンがこげないようにトースターを見張ってます」と言いながら、強い日差しの中で遠くを見るように、てのひらを目の上にかざしました。思わず笑ってしまったのですが、なにがおかしいのか本人はよくわからない様子でした。
コミュニケーションというキャッチボール
人と人とが会話をする様子は、言葉や仕草、視線などをボールにみたて、ボールを受け取っては投げるキャッチボールの場面にたとえられます。アスペルガー症候群の子どもはコミュニケーションのキャッチボールが苦手です。言葉はあるので投げることも受けることもできなくはないのですが、相手とキャッチボールを楽しむことが苦手なのです。キャッチボールができない時に、周囲が「ふざけている」「やる気がない」とか、「協調性がない」といった視点で判断するのは全く不適切です。相手の意図を推測したり、相手の反応に応じてこちらの動きを調節していくといったコミュニケーション能力の障害なのです。もともとコミュニケーションが苦手なのですから、緊張した情況だとふだんのようにはしゃべれなくなったり、逆に自分の関心のある分野の話題を饒舌に話したりします。このような場合もおおもとにあるのはコミュニケーションの障害なのです。
2009年07月17日
斜めからインドネシアを眺めよう 305
丸子の家からです。
この会社が撤退した後に入りたいという会社があって、私が仲介をした。其の会社にアドバイスしたことは、何もしない現地の社長さんがしなければならないことを極力減らすことです。やってもらうことが多いと、開城が、それだけ遅くなるし、いつになるのか目標の日もはっきりできなくなるからです。できるだけなにもしてもらわないで、組合との交渉だけで、後は何もしなくていいという条件を提案したのです。
そのように、期待していますが、彼らにやってもらうことがおおくなればなるほど開城は先延ばしになる、並行して進める能力がない。
結局、この会社の操業前からかかわり、状態について批判し続け、なんとか、インドネシアでやっていけるように願ったが、最初の方針から失敗だった。その方針についても批判したが効果はなかったどころか逆にパワハラにあった。
約14年で、撤退することになった。もっと早い撤退を提案していたが、やっとという感じです。本当の撤退はまだ先になりますが。結局、この会社が本社やインドネシアに貢献したのは押出し部門だけでした。最初から最後までかかわった私としては、別の名前の会社としてまだまだ、かかわります。まだ、これからです。
これからが面白くなるのです。
組合員のことは今月中旬には、私の組合員に対するアドバイスが功を奏し、解決しました。と、こういうことですが、現実のクローズまだ一年先まで実現しないでしょう。
なんだかんだと、新たな障害が出てきます。その障害が閉じる工程で出てくることを、あらかじめ調査していないし、とっくに始めていなければならにインドネシア国内の客先にも、閉めるなどという話はないと云い続けていたし、今も、話をしていない。
工業団地の事務所へも話をしていない。なにも知らないので,その都度、そのことで準備し処理しなければならない上に、インドネシアですから、役所の動きも遅いし、アンダーテーブルも生ずる。私にははっきり見えます。組合員は私のアドバイスを素直に聞きますが、経営側は私がアドバイスすると、それ以外の方法とります。だから、面白い。わざと、遅らせるなら、急がせれば早くなるでしょうが、わざとではなく、彼らなりに気分は努力して、完全、クローズまで、一年以上、方法が見つからないまま、時が過ぎるのです。早くも2010年末でしょう。
静岡駅前に家康の銅像?が立っていたのにはびっくりした。こういうことが好きな人がいるんだな、立てたい人がいるのでしょう。富士山静岡空港のミニ版ですね。無くても何の問題はないと思うのだが。無ければならないと思う人は少ないと思うのですが。