2018年05月21日

(^_-)-☆現状打破

 3411 ブカプアサ ベルサマをリッポチカランのシティーヲークのソラリアで、久しぶりに会った、20年以上前変えあの知り合いで、私の生徒の一人でもあるディキー君とだった。ちょっと触れたが、今の会社で私に代わる人を模索していたが、たまたま、彼が、自身の現状に満足していたくないらしくて、環境を買えたといっているという話があり、電話で話したよころ、というと、かなり、その気持ちがはっきりしているので、会って、詳しい話を話してみようと思った。

彼はチアンジュール、ボゴールの南東、スカブミの東、バンドゥンの南西、の出身。バンドゥン郊外のパダジャララン大学、日本語学科の出身、そして、静岡で日本語学校に2年間、いたことがあり、その時に、アルバイトで太田化工で仕事をしたことがあった。その時の縁で、彼がインドネシアに戻ったときに就職先の相談をされ、キタガワで押出の仕事を勧め、私の弟子のようなものになった。

その後、いろいろあって、今の会社の押出部門のトップになっている。その部門に日本人はいない。世間話から、徐々に、本題に入ってゆくと、その会社、プラスチックの成型とその関連のをしている、押出は小さい部門で、%90%以上は射出関連、トップからそれらの部門に日本人が責任者としているが、押出には日本人はいない。要するに、新しい仕事を取れない、現状維持だけで、自分の今の仕事は、やることがない上に、仕事を知る日本人がいないから、現状を理解してもらえない。いても意味がないから環境を替えたいという。

技術者として、気持ちは十分わかる。今後の彼の行動について、私の希望を話しておいた。どうなることやら、彼の決心は堅いようななおで、何とか、添えるように手伝いたいと思う。レバラン休暇の前にはっきりする。
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ブカプアサまで一時間ほど前の私が住む田舎町のメイン通りの様子、道の両側に、手つくりの飲み物を売る店が並んでいる、それらを買う人が群がっている。殆どの家庭では自分で作るより、買う人が多い。
不満 希望 打破
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2018年03月24日

(^_-)-☆走行距離約100Km

(^_-)-☆走行距離約100Km 3353 東西南北によく走った。客先へ値上げの交渉に行ってきた。この製品、原料は超特殊で、Kg20US$以上する輸入品、月平均250Kgしか使わない。インドネシアでは内しか使っていない。どうにも融通が利かない原料。それが、新規の見積もりでは、10%ほど値上げの宣告をされてしまった。また、Rpで価格を出してあるので、最近のRp安で。Rp価格は20%くらい上げてきている。また、この製品、粗利の%が極、端にすくない。というのは、原料価格が高いからだ。停電などでちょっとロスが多きなると、損失になってしまっている。
どうにも、このままでは、継続しかねるので、止む負えず、値上げを、お願いしに行ってきた。この仕事、なくなってしまっても仕方がないというより、現行価格では続けたくない。

新任の社長さん、何かと忙しいと思い、メールで、挨拶に行きたいが、会わせますから指定してくださいと頼んだ。一週間過ぎても。返事がない。再度、今度は、こちらから、日時を指定して、いかかでしょうか、その時が都合が悪ければ、他の日時を指定してくださいとお願した。それから。一週間、私が都合を聞いた日時が、翌日に迫ったとき、メールではなく、会社に電話して本人に出て、もらった。そして、やっと、話が通じた。そして、メールの話をしたら、そうですか、そうでしたね、とぼけたような言い方、どうですか。、明日?と聞いたら,都合が悪いという。そして、今日の15時、お会いできることで約束し、15時きっかりに、受付に入った。ジャンジ、ジャム リマブラス、といった。受付の女性、本人に連絡した。それから私に話しかけた。社長、一時間ほどまえから、ミーティングをしていて、まだ、1時間ほどかかるが、待っていただけますかと、言っているが、どうしましか、だった。

この新社長、何やら、イッテシマッテいるなと思った。50分ほど待たされて、やっと、初ご対面。謝っていなかった。しばらく世間話をして、値上げのお願いを切り出した。もう、この時には、持ってきた値上げ案より、もっと、上げて持ってくればよかったと思っていた。そして、出した新見積もりから、ディスコンはしないぞと、決めた。付き合いが無くなってもいいと思った。

5時半にルコタムリンの日本食レストランで旧友と待ち合わせをして食事をした。その人、1998年、始めてインドネシアにやってきて、仕事の関係で2000年に知り合った。射出成型の技術者で、最初タンゲランにいたが今はデルタシリコン1の会社にいる。止めたいから、どこか紹介して、と、まじめに、真剣に私に頼んでいた。
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ITASのA4版とパスポートサイズ。
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着るものの修理屋さん。偶にだが、ここで頼む。
値上げ 変 友人
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2017年10月16日

(^_-)-☆恩師宅訪問

 3194 次は、中学の同級会へのアプローチの一つ、担任だった先生宅へのご挨拶だった。何年ぶりだろうか、インドネシアへ行っている期間中、一度だけ、私も幹事の一人になって、学年会を催したことがあった。それが、15年ほど前だったと思う。全学年11クラスのほとんどの先生、多分、10人出席されたと思う、各クラス、平均20名合計200人以上の催しだった。その時、私のクラスも20人以上参加し、先生も見えられ、二次会では、会場を変えて、クラス会になった。
その後、学年会は次に主催する組が決まっていたはずが、開かれないままだし、クラス会も私がほとんど日本にいないから、他の人が主になってやることもなかった。

私たちに担任だった先生は、11歳とし上、85歳でした。見かけもそうだが、私たちとあまり変わらない年齢に見えるし、言葉も、表現もはっきりしているし、記憶も衰えていない。75まで、北高校で教鞭をとっていたとか、その後は、町の役員や老人会の幹事、市の手伝いとか、やることが、今でも、たくさんあるとか。やはり、動き続けている、そして、病気らしい病気のも掛かっていないことが、普通に元気でいられるのだと、ご本人も分析していた。お話、私にも、参考になった。

趣味は多かったと記憶している。中学一年間だけの接触だったが、昼休みに、曲の解説をして、クラシックの音楽を流していたのも先生だった。自宅から持ってきたものだった。カメラも当時では、高級な大きな一眼レフを持っていて、私たちを撮影していたことも覚えている。ちょっと、家庭が経済的に恵まれている先生だなと思っていた。当時、静岡では、ちょっと、有名な、洋裁学校の息子さんだったことを、卒業してから知った。今回、初めて、応接間に通されたが、書物とLPとCDのコレクションで溢れかえっていた。なるほどと思う。

三時間近く、とりとめのない話をし、同級会の確認をして、お宅を後にした。

先生の話によると、当時のほかの10人の同学年担任だった先生は、すべて、お亡くなりになっていた。
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 静岡の街の東側、東静岡駅の東に行ったが、コンテナターミナルになっていた。大型のショッピングモール?の脇を通ったが、出入りの車と近くの講堂に出る信号で、思いがけない大渋滞になっていて、これも、びっくり。私にとっては、この風景、新鮮に映った。今日も雨だった。
恩師 元気 活動
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2017年08月26日

(^_-)-☆ちょっと長い話

 3143 10年以上前の本当にあったこと。 
某有名私立大学の理工学部出身の青年、25歳。本社勤務暦3年の将来有望な期待される青年らしい。中学校の時から野球をやっていたと言うことで体もいいし腕力も背筋力もありそう。ゴルフも太田さんには、悪いけれど、250mは軽いですよ、と、言っていて、なるほど、実際に軽々と私より100m先に飛ばす。

現場で金型の解体の指導を始めた。順番にこうして、ああして、これを緩め、これをはずしてから、これを緩める、などと、しゃべりながら私が作業を進める。ご本人さん、頷くでもなく、手伝おうとするでもなく、メモをするでもなく、腕を後ろに組んでみている。その内、ボルトが硬くて外れない物に出会った。私がパイプやパンマーを使って、緩めようとしたが、完全に焼きついているか、傷が食い込んでしまっているかで、ビクともしない、私の力ではどうしようもなかった。また、力任せにやって、ボルトをちぎってしまっては、後始末が面倒になるなどとも話した。彼はそれでも、手出しをしようとしない、見ているのか、眺めているのか、立っているだけだった。 ちょっと、力を貸して、と、頼んだら、疲れやすいから、出来ません、と、言った。「こういう仕事も、自分でやらなければならないときが来るよ」と言ったら、「私は、力仕事はしません」ときた。
私は、最期の手段で、全体を外し、焼き場に持っていって、ボルトごと金型を真っ赤に焼いてやわらかくし、ボルトを水で冷やして、収縮させて、万力に加えてボルトを外した。ご本人さん、感心するでもなく、納得するでもなく、本当に無関心な態度で、眺めていただけ。こんなやつもいるのかと、開いた口がふさがらなかった。私の仕事を冷ややかな目で眺めながら、何を考えているのだろうか。インドネシアに来て、どんなことをしようとしているのでしょうか、自信有りげに何もしないので、不気味である。

 世の中にはすごい人もいるもので、何が、自信ある態度の裏づけなのでしょうか。25歳や30歳ごろに、60歳の目上の人、私に、仕事をしたくないと言うのだから、たいした者だと思う。当時のY君のことだ。現場の仕事をしたがらない。私が教える仕事は頭で考えるよりも自分で積極的に手を出して、体で覚えるチャンスを一杯つくることだが、それを、最初に言って聞かせたのだが、本人、一向に現場へ出ようともしない。「太田さん、何々の基準書はありますかとか標準書は整っていますか、あったら、見せてください」と言う。監査に来たようなことをいう。こちらは、「あるけれど、目安であって、自分で体験して、自分で書くくらいにならないとだめだよ」と言って聞かせる。それでも、インドネシア人スタッフにそれらの書類を要求して手に入れたようだ。しかし、インドネシア語である。全く理解できない。直ぐに読むことをあきらめて、返してしまった。さすがに、日本語の物を求めてこなかった。どうするつもりだったのでしょうか。もしなければ、私に作るように要求するつもりだったのでしょうか。監査員のつもりだったのでしょうか。とにかく、事務所にいないで、現場で皆と話をしたり仕事をしたりしなさい。其れが、仕事も言葉も速く覚える最良の方法だよ。と、言って聞かせた。
その後はどうするかと思っていたら、現場へ出ることは出た。しかし、現場の椅子に座って、周りを眺めている、みんなの仕事を見ているのかいないのか、目的は何なのか、周りの人が、迷惑しているのが分かる。それでも、じっとしている。

何しにインドネシアへ来たのか聞いてみた。「行けって言われたから」と言う返事。これから、どうするつもりか、聞いてみた。「別に、何もする気はない」と、言ってくれた。「それじゃ、いてもらっても困るから、帰れば」といって、それっきり、後は話しかけない。ご本人さん、社長と工場長の間にある、お偉いさん、来客時だけ使う真ん中の大きな机を前にして、背もたれの大きな椅子に踏ん反り返って、事務所全体を眺めている。私は、その事務所の隅っこの窓際に一人陣取っているのであたかも、彼が威張った馬鹿上司で、私は、ふきだまりに追いやられたような雰囲気。誰がみてもそう見えるだろう。
其れが、彼が帰るまで二週間続いた。その間、一言も口をきかなかった。私の技術を覚える為に派遣されてきたとばっかり思っていたし、そう、紹介されてから、その気になっていたが、彼と会って一週間後には、こりゃどうにもならないなと思った。一ヵ月半で日本へ帰っていった。恐れ入りました。

この青年、その時の社長は踏ん反り返る人ではなかったが、今の社長は、その青年が帰る前、二週間踏ん反り返っていたと同じスタイルで踏ん反り返って三年が過ぎた。従業員の誰からも、あの人は仕事嫌いで、会社にあまり出てこない。いるときはいつもそっくり返っていると言われているが、本人には伝わっていないようだ。
そして、以前の社長のときは、踏ん反り返っていなかった工場長が,箍が外れたのでしょう、今の社長になったら、一緒に踏ん反り返っている。私を、パワハラをしたコンビだ。時にはいびきをかいて寝てしまっている。すごい状態で、あきれて、開いた口がふさがらない。目をさまして、書類をながめて、誰かを呼んで、叱り付け始める。その変身に笑っちゃう。
件の一見スポーツマン風で、体育系、現場の仕事を率先して遣りそうな青年は、大変用心深いというか、心配性と言うか、気が小さいと言うか、ジャカルタ中心街のガトゥットゥスブロト通りが3イン1で二人きりだったので、高速道路から其の通りに出ることが出来なかった。高速道路の脇で降ろして、其のとおりを横切らせて、彼のアパートまで帰らせようと車を路肩に駐車した。そうすることを前もって話しておいた。
だが、其の場所に来て、自分のアパートまで三車線のガトゥットゥスブロト通りを横切らなければならないことを見て知った。車は信号の関係で断続的に込んでいる時と空いている時が二三分おきに来る。彼は「いやだ、こんなことをさせるのですか」と、怒ったように、また、懇願するように、降りないと言い出した。しょうがないから、3イン1が終わる19:00まで、約二時間ジャカルタの南部の方を案内して時間を潰してもどった。

おかげで、私が彼を降ろして家に着いたのが21:00を回っていた。私が、無理を言ったのかもしれませんが、以前にジャカルタの人を何人もそういう方法で降ろしたことがあるので、当たり前に、彼にもそうしてもらおうと思っただけだったが、いろいろな人がいる物だと感じさせられた。

この中の人々、今は、どうしているのでしょうか。三人とも、あの時の会社にはいないと思う。
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パンガンダランのチャガールアラム、ブンガバンカイがありますね。一つは蕾です。分かりやすいほうです。匂いがかすかにして来ます。
冬彦 過保護 ふんぞり返り
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2017年07月28日

(^_-)-☆ワ〜〜オ!!

 3114 これ、現実か?50年以上前の出来事の再現だ。こんな、奇跡のような偶然があるのだろうか。22歳の時にあったことが、73歳直前で、繰り返された。21日に彼女の誕生日のことを書いたばかりだったが。
こんなところで、こんなタイミングで、声を掛けられた。エッ、誰?通りがかりの小さな個人病院の駐車場のバイクに乗ろうとしている女性からだった。声を掛けられる心当たりが全くない。私は歩いて、歯医者へ行き、その帰り道だった。その前に、100円ショップで買い物をした。あたかも、時間調整したかのような。そして、たまたま、その時間にそこを通っただけだった。
 何秒か、誰?と思い見つめていたら、被っていたヘルメットを取り始めた。顎から口、頬が見えてきた。まだ、誰なのか分からない。エッ、まさか!!、目が現れた。エっ、びっくり、かのペースメーカーの人、中学の同級生だった。駅のホームではないが、あの、五輪真弓の歌、”雨宿り“の世界が再現された。

 僕だっていうこと、よくわかったね、と言ったら、すぐわかったよ、変わっていないね、と。私の方も、ヘルメットを取って、見えた顔は、10何年か前にあった時と全く同じだったし、中学生の時の面影そのものだった。
  こんなことってあるんだね、でも、太田君とだけだよ、他の人と、町で、偶然会って、声を掛け合うことはないという。こちらも、同じだ。

 突然の出会いで、何を話したらいいかわからない。昨日、下駄を買いに行った話をしたら、ブログを読んでいて知っていた。彼女の方は、周りで亡くなる人が多くなった。誰々も亡くなったよ、同級会をしようよ、という話。

そして、彼女、身体障碍者の手伝いをすり仕事中だったので、電話番号を確認しあって、近いうちに、会いましょう、同級会のこともあるし、ということで、別れた。これも、あの時と同じだった。電話するよ、じゃあ、と言いながら、バイクで去っていった。呆気に取られて後姿を見ていた。行ってしまってから、後姿でも、写真を撮ればよかったと思った。かかった病院と買い物をした店を撮ったのに、まったく、思いつかなかった。
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この写真を撮った一分後のできごとだった。
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こんな花のようだった。


 今日から、生涯学習センター(以前、長田公民館)の囲碁同好会へ行くことにしていて、久しぶりに行ってきた。なんだか、知らないが、うまい人だということにされて、二段だという人が、3子を置いて、お願いしますということになった。何十年もほとんど打っていないから、1勝2敗だった。半年、会員になることにした。ただし、碁を打っていても、午前中の、嘘のような本当の出来事で、思考が中途半端になっていて、うわの空で打っていた。
ゆめ うつつ まぼろし
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2017年05月12日

(^_-)-☆時は流れる

 3036 日本で40年くらい前から、私と仕事を一緒にやってくれた当時若者が、今は66歳、去年の初めごろから、そろそろ、会社を閉じたい、どうも、手首の具合が悪くなったようで、シングルのゴルフもこの一年以上できないと言っていた。気は優しくて力持ち、中学時代は卓球で、高校では柔道部の猛者だったという。年には勝てず、押出の仕事から、いよいよ離れることにしたそうだ。客先の多くは、太田化工に移し、押出機などの装置の大半も太田化工に移したそうだ。私と沼津で一緒に太田化工を立ち上げたようなもの、静岡に来てしまった私の後を継いで、客先もそのまま残し、数年後には、太田化工から独立し、セピックという名前の会社を立ち上げて、今までに至っていた。私の一番弟子というところだった。残念だが、原料袋も持ち上げられなくなったと、嘆いたくらいだから、仕方がないかと思う。

もう一人、彼の同級生で会計事務所を経営している、私が会社を作る前、富士プラ精工という会社で夜勤専門、12時間勤務をしていた時、一年半ほど一緒で、経理の仕事をやっていた。私が会社を作ってから、会計事務所に勤めだし、税理士資格に挑戦し、毎年、一科目かに科目合格し、4年で税理士の資格を取った。その間、勉強だからと言って、資格を取ったら有料にするからと言って、私の会社の経理を無料でやってくれていた。その後、静岡へうてってからも、かれが、税務申告をしてくれていた。私が社長時代、20年間、一度も税務署の監査を受けたことがなかった。もっとも、規模の割には多額の税金を払っていたからかもしれないが、彼の手腕には、大いにお世話になった。二年に一回ほどは、今でも、太田化工であったり、私が沼津の会計事務所に、アラック(インドネシアの酒)を届けたりしていた。 その彼も、そろそろ、事務所を他人に任せることを考えているという。

富士プラ精工時代に、何の大会だったか、卓球の団体戦に出たことがあった。亡くなった、梨大時代の同級生、同じ応用化学で卓球部だった小山君と四人で、いいところまで行った覚えがある。

お世話になりましたと、彼らから、言われているが、まだまだだよ、これからも、お世話するかもしれないし、お世話せれる可能性方が高いよね、という話をした。
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最近、目立って、プルタミニが増えている。以前は、地方の田舎へ行くと、ガソリンスタンドがほとんどないところに、ペットボトルで道端に売っていた。しかし、田舎へ行かなくても、ちょっと、路地に入っただけのところで、ミニ ガスステージョンができている。続々と増えている感じだ。また、最近、プレミウムという一番安い種類のガソリンが売られなくなっていて、プルタライトという種類が多くなっている。それでも、リッター5〜60円くらいだが。ミニでもライト(ガソリンの一種)とソーラル(軽油)を売っている。法に触れないのでしょうか、危ないと思うのだが。

日付が変わったころ、家から、夜逃げのようにして出発、空港へ向かう。4;30出発で現地時間11時に到着予定。
出発 引退 年月
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2017年04月15日

(^_-)-☆人は様々

 3009 Good Friday祭日だが、クリスチャンではない皆さんは出勤、レバラン休暇に振り替える。私は、午前中ゴルフでした。
うまくいっていない仕事があって、19時過ぎまで会社にいた。結局、うまくいかなかった。金型からの樹脂の出方が変、何が原因かわからなかったが、最終的にわかって、それでも時間がないので、月曜日にとした。
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夕方、工場から。目の下は、釣り堀になっている。
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65歳だという。この養殖池の持ち主だ。餌をやりに来ていた。カンビン(山羊)の放牧もしていた。

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0013.htmlもう、10年以上前の話か。ひどい人はひどいね。直らないね。
http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage001.htmlこんな人シリーズ、日本で社長時代には、想像できなかった、非常に興味深い人たちが多い世界を知った。なお、この後に、何人か追加する予定がある。

 会社へ行ったら、こんな話があった。インドネシアらしい話だと思う。経理と図面書きの、そのことでは、結構、できると思っている人たちだ。
 昨日の朝,出勤したときから、事務所内のWi-Fiが、ネットなしの状態になった。別に、それの担当者が決まっているわけではないが、設置したときに、立ち会って、パスワードを聞いた人、それが。図面書きの人だったので、なんとなく、彼が、その責任者のようなものになっていた。事務所にいる時間が長いのも彼と経理だったので、二人に、使えないことを伝えた。それ以前に、使えないことを彼らも知っていた。
 わかっていても、彼らは、受信発信器を何気なくいじっているだけで、導入した会社に問い合わせをしようとしないので、状況を話して、直してもらいなさい、と。頼んだ。

 私が席を外した時に、渋々、電話して聞いたらしい。一時間ほどして、私が戻った時に、彼ら、何も言わない。まだ、Wi-Fiが使えない。彼らに聞いてみたら、電話をしたという。原因は、と聞いたら、ガングー(一般的には邪魔という意味)だという。それで、彼らは、納得しているらしいのが不思議、私には、電話をしなさいと言ったのに、その結果の報告、電話したという話もないし、原因に関しての報告もないのも不思議だ。その日、一日中、使えなかった。

 今日、午後、会社へ行っても矢張り、使えない。どうなっているの?と聞いたら、やはり、ガングーだという、この地域全体にガングーがあるという。SMSが入っているという。昨日と同じだ。彼らは、使えないことを納得している。もう一度聞いた。使えない原因はと?そのガングーの原因は?と。そして、そのガングーはいつなくなる見込みなの?と。原因を聞くということは、そういうことでしょ?と。

 渋々、また、電話した。結局、ガングーの原因を、今も、チェックしているという。いつ、正常に戻るか、わからないという。ガパパの世界である。インドネシアである。私は、納得できないが、納得した。
 自分のモデムがあるので、それを使っている。
インドネシア人 日本人 不可解
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2017年03月30日

(^_-)-☆お別れ

 2993 海へ行ったのに、腿がパンパンに張って痛む、座椅子からの立ち上がりが大変、両手を卓袱台につかまって、体を持ち上げなければならない。原因は、島に上陸してから、ちょっと高台に上がるのに、両手を前について上がるような、梯子のような急は階段を上る、それを、何回か、繰り返したからだ。また、島での移動はタクシーより、オジェックが主だった。オジェックって長時間乗ったことがなかったが、意外に、後ろに捕まっていると腹筋を使うし、股を大きく開くので、内腿の足の付け根の筋肉を突っ張らせている。また、両足に力が入る。かなり不自然な状態になっている。歳を取ると痛みは長い時間差でやってくる。
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リッポチカランのシロアムへ行ってきた。なんというか、ついこの前まで、一緒のカートでゴルフをしていた方が、この世から消えてしまうとは、この世の習いとはいえ、言いようがない悲しみがこみ上げてくる。栗崎さんにお世話になった方が非常に多いので、私と同じような気持ちの人も多いと思う。場所は、建物の右端、ちょっと、地下へ降りた場所でした。息子さんや奥さんと、栗崎さんは、多分、私が同じカートに乗って、ゴルフをしたのが、最後だと思う、こんな話をしながら、つい涙が流れた。「人生是離別」

お別れは、30日の夜8時までです。


会社はこの連休中、私が遊んでいる最中、オーバータイムで継続生産をしていた。とにかく、電力不足で、フル稼働できないので、仕方がないらしい。内の会社は、三交代勤務の人達は、土曜日は通常出勤なので、今回の連休は、28日を27日に移動し、日、月、二日連休になっていたが、その二日とも出勤してもらった。日系、コリアン系各社、冷蔵庫の販売が好調の様子、それ関係のプロファイルやチューブの注文が増えているからだ。

http://otaenplaext.net/newpage125.html 旅行記 
http://otaenplaext.net/newpage126.html 写真集
Raja Ampatの記録です。早速、ウェブサイトに移しました。
ご霊前 合掌 ご冥福
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2017年02月21日

(^_-)-☆生甲斐

 2956 金正男っていう人、年は幾つだったのでしょうか。何のためにこの世にいたのでしょうか。おかしな一族に生まれてきたことには運が悪いとしか言いようがない。気の毒でしかないが、彼の生甲斐は何だったのでしょうか。風采が上がらない顔とスタイルで、いったい、どこで、何をしようと思っていたのでしょうか。何をしていたのでしょうか。何かの仕事をしていたとは思えないし、生活資金は、何処からか受け取っていたのでしょうが、そんな、生き方で良かったのでしょうか。勿論、奥さんはいたし、子供もいるのだから、それらの人達だけにでも、納得させるような生き方をしていたのでしょうか。亡命の道を選ばなかったのでしょうか。弟のやり方に反対で、殺される運命なら、もっと、世界を巻き込んだ行動はできなかったのでしょうか。それに、殺されなくても、生きていただけで、訳の分からないドロドロした国際社会に巻き込まれる運命にある。発言がなかったということは、それだけの勇気がなかったということでしょうか。それにしても、稀有な運命、彼の思いは想像できない。

生甲斐と言えば、考えさせられる人たちがあちこちにいる。ISの連中の生甲斐は、韓国の少女像を繁殖させている人達の生甲斐は、

私の生甲斐は、誰かや、どこかをやっつけよう、自分が思っているようにさせよう、私がしていることに従え、そういうことは全くなくて、望む人には教えるし、望む人や集団のために、仕事をする、ことだ。出来る範囲で援助もする。出来る範囲で、見て回る。それを50年以上続けてきた。ということだが。

金正男を殺した人たち、殺せと命じた人達、何が生甲斐なのでしょうか。少女像を増殖している人達は何が生甲斐なのでしょうか。打ち込んだり没頭したりすることができるもの、自己満足ができること、それは、他人のためにでも、自分のためにでもどちらでもいいと思うが、これが生甲斐だと思うが、ご本人は、満足しているのでしょうか、打ち込んでいるのでしょうか、そうなら,気の毒ですね。ふと、そんなことを思った。他人に迷惑を掛けない、他人をまきこまない生甲斐は、みつけられないのでしょうか。
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ジャラン ラヤ チビトゥンへ行った。
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向こうに、私たちの工場が見える。ここまで、なかなか、たどり着けない。ゴルフ場やジャバベカ6の東1km以内だが、直接東へ行けないから、それらから、南回りでも北回りでも3qくらい走らなければ着かない。
生甲斐 他人 自己
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2016年12月28日

(^_-)-☆大ショック

 2900 アラックバリを届けに、行ったついでに、太田化工の先、焼津方面に向かう、旧150号線、大崩海岸の様子を見に行って見た。そこまではいかなかったが、名前通り、崖崩れがあって、通り抜けできなかった。おかげで、他の車が走っていない、自由に道端駐車が出来た。もう、止めてしまったが、私が社長をしていたころ、パートタイマーで仕事を手伝ってくれていた女性にばったり会って、びっくり、あの頃はよかったね、と、しばらく、話をすることができた。
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 同じ場所で崖崩れを繰り返すので、海に迂回橋を作った30年ほど前に。
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 そして、その橋から、富士山 静岡市街地 日本平、その向こうに箱根が見える。

沼津の子会社”セピック“太田化工が沼津で始まった時に、一緒にやってくれた人に、そこを任せ、私は静岡に来てしまって、その後、太田化工から切り離し、独立させた会社だ。高齢になったが、後継者がいない、そこで、太田化工に事業譲渡をという話は聞いていたが、話がまとまったらしい。”セピック”は、クローズし、従業員、装置込みで、客先も引き受ける。既に、それらの製品は太田化工でトライし、客先からの承認も得たという。来年の4月には、完全に、引継移動が終了する。売買契約は交わされた。

赤尾洋二先生の訃報が入った。88才。大学四年の時の恩師である。卒業してから、半年後に、先日、富山へ行った時、以前、行ったことがあると書いたが、赤尾先生とご一緒だった。先生の推薦とお膳立てで、日本品質管理学会で卒論の発表をしたのでした。亡くなったのは10月24日だったとのこと、私は一寸前に先生のことを書いたなと、振り返ってみたら、10月18日(19日に投稿)に何年かぶりに、恩人というタイトルで赤尾先生との関わりを書いた。その時、来年、同級会があるのでその時にお会いしたいと思いながら書いた。会えなかったのはショックで無念。そして、10月24日(25日に投稿)には、高校時代ダブルスを組んでいた亡くなった友人のことを書いていた。どちらも、その日に書く気になったのは、何故だろうか。たまたま、思い出して書いただけなのに、何故、たまたまだったのでしょうか。
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我が家の庭、強い雨。
訃報 恩人 無念
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2016年10月25日

(^_-)-☆ダブルスコンビ

 2839 亡くなったダブルスのコンビとの記憶。静高の卓球部の時に、二年から三年にかけて、彼が主将、私がマネージャーをしていた。彼は、高松中学の時から知られた存在だったが、団体としては、私がいた末広には、勝てなかった。確か、彼はシングルでベスト8に入っていたと思う、私は16止まりだった。彼の方が強かった。高校に入って、直ぐに、私も彼も団体戦のレギュラーになった。というのは、その時、私たちより強かったのは、三年に一人、二年に一人しかいなかった。ダブルスはその二人が組んで、私たちはシングルだけに出た。当時、中学が市で優勝を争ったのが、安倍川と末広だった。三年生は、安倍中の出身、二年生が、私の先輩、末中からだった。
その人、現在、精華学園?高校、大学、良く知らないが、理事長かなんかやっているみたいだし、県の育英会の会長もやっているみたいだ。静岡県の事務長みたいな仕事、何年もやっていて、人事異動の新聞に顔写真が、乗っていたのを見たことがある。話はそれるが、その人、K,Mさんで、三番町小学校からずっと、私の近くの上にいた。ケイさんと呼んでいた。先輩が卒業の時に私が送辞を読んだ。その前の年、先輩が送辞を読んでいた、私の姉が、答辞を読んでいた。目立った人だが、結構、面白かった。いい加減な人だった。中学の時の逸話、先輩、三年の時、学校の風紀委員長をやらされていた。ある朝、風紀委員とその指導の先生が、遅刻生徒を見張っていた。先輩はその役目をしなければならない立場だったが、先輩自身が遅刻、そこで、門からではなく、離れた塀を乗り越えて学内に入った。それを、他の先生に見つかって、こっぴどく叱られたのを知っている。その次の年は、私が風紀委員長になっていた。

高校の時には、部のキャプテンだったが、部の仕事は、全く、マネージャー任せで、知らん顔、そのマネージャー、後に、中町にあった県の中小企業振興会の会長になったと思う。私は歩きで、片道一時間くらいかけて通学(三年になって自転車通学)していたが、練習が終わって帰宅する時、先輩の自転車の後ろに乗せてもらって途中まで一緒のことが良くあった。遠回りをして、焼き芋屋に寄ったり、黄金饅頭を食べたり、女学校(中学の時の知り合いも多かった)巡りをした。大学になっても、静大と梨大になったが、国公立の大会や静高の合宿でよく会う機会があった。国公立、北大での開催の時には、先輩、ベスト8まで行っていた。私がやっと32位以内だった。

で、同級のT.Y君の事、二年になると、先輩と彼がダブルスを組んで、私はシングルだけ、そして、もう一人のシングルは、一年生の服織中学出身のF君だった。彼は、北大をでて、地元の藁科?で動物病院を経営していた。

で、また、話が戻ると、二年の時には団体、県中部で二位、個人は8位以内だった。彼は、4位以内になった。二年の後半から、彼と私がダブルスを組むようになった。彼は左利き、一年の時から、私は彼といつも練習をしていた。彼にとって、私が一番良い練習相手だったから、彼が、私を離さなかった。試合形式で限りなく繰り返した。私は不満だった。実戦で、左利きと戦うことは無いにもかかわらず、いくら、私より強いからと言って、左利きだけとしか練習できないわけだから、右利きで相手になる相手は私にいなかったし、そうするしかなかった。当時、彼は中部で、シングルで準優勝、私は、矢張りベストエイト止まりだった。私が伸びなかったのは、彼の練習台になっていたからだと思っていた。何年か後に、彼に、それを言ったことがあった。すると、彼は、左利き相手に、私がいろいろ工夫して、勝とうとしてくれたことで、自分がうまくなったと言っていた。私を頼りにしていたと言っていた。

彼は、静大の夜間を卒業し、県の財務局?に就職し、そして、要職について長く、税務関係の仕事に携わっていた。どこかの税務署長になっていたと思う。左利きの彼とダブルスを組んで、団体戦では、県大会に行っても無敗だった。個人戦はあったが、ダブルス戦がなかった。有れば、ダントツで優勝していたと思う。顧問やコーチの先生がいない部だった。個人戦の決勝の時、既に準決で負けていた私は彼のコーチ役に回っていた。いちいち、私に、アドバイスを求めてくる、負けてしまったが、第三者的に見ると、絵になりそうだと自分で思った。まわりには、大勢の女学生(私たちの同級生、知り合いもおおい)が、彼や私を応援していた。中学の時、同じクラスだった人もいた。彼女は、彼がなくなったことを、直ぐに知ったと思う。その頃には、結構周りから意識をされていたと後から思う。私が緊張したのを覚えている。

当時、県の卓球協会の役員が、壇上にいて、見回していたが、各学校の顧問をしている人も多く、顔見知りになってはいた。中学の時に強かった生徒が、他の高校に進学して、出てきている。私を含めて、それほどでもなかった私たちが、コーチの先生もいないのに、自分たちだけで、中学時に負けていた他校の選手より強くなっているのには、感心していたようで、“お前ら、矢張り、静高生だな”と、妙に感心されたことがあった。

昨年の暮れ、彼のことを知って、書いたが、そういう歳になったのかなと思う。折しも、大学の時の応用化学同級会の案内のメールが入った。何故か、12月2日だそうだ。金曜日にするということと、送られた人数が30人、どう読めばいいのでしょうか。私は、行けない。その時、日本にいないから。
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タンゲランの“こしひかり”5kgで15万Rp,安いし、美味しい、私はこれにしている。“富士光”は23万Rpだ。
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ジャバベカ ファーマーズ マーケットの駐車場から、東の空を望む。
同級生 先輩 後輩
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2016年10月19日

(^_-)-☆恩人

 2833 久しぶりに赤尾先生を検索してみた。山梨大学にもどられていることは知っていた。顔写真も眺めた。いつ頃のでしょうか。もう、86歳くらいになっているでしょう。私が師事していたころは、本尾教室の助教授で30歳前半でした。私の恩人です。現在あるのは、先生からの影響が大きい、勉強や研究ではなく、お世話になったということ自体が、影響です。「太田君は、他人が目に見える結果や状態では、評価されにくいが、持っている実力は、評価する人より、ある」と、言われた。実は、私も自身そう思っていたので、妙な自信になった。
「太田君は、変わっているから、サラリーマンには向いていないな」と、言われたこともあった。先生に紹介していただいた会社を辞める時に、その言葉が浮かんだし、会社を興したのも、その言葉通りだった。

卒業単位を落とすところだったが、先生に助けてもらったし、テストの結果は思わしくない、論文の発表もうまくない、それでも、テストされた科目について、結果が良い人より分かっている、発表は上手ではないが、内容は、豊富で貴重だ。と、先生は評価してくれた。偕楽園の涙は、決して忘れない。卒業後、卒論を富山で品質管理学会で発表の機会も作っていただいた。昇降法という破壊試験の分析方法でした。

卒業一年ほど前から、オリンピック景気に反動で、当時としてはどん底の不景気、大企業は軒並み採用ゼロ、中小企業もほとんどなく、求人情報が殆どはいらなかった。私は就職するしかないので、先生に紹介していただいた、東プラ精工に入ることができた。その会社では、国立大の工学部からの受け入れは初めてだった。これも、自分で会社を興し、今、インドネシアでプラスチックの押出成形を教えていることに繋がっている。先生にお会いしていなければ、この会社に就職していなければ、現状の私は、存在していなかった。

先生にとっては、始めてだったと思う、私たちの結婚の仲人もお願いしてしまった。最後にお会いしたのは、卒業して何年かのちの同級会だった、もう、40年以上、お会いしていない、何とか、今年の末までには、出かけて行って、お会いしたいと思う。私にとっての恩人と言えるのは、先生だけだ。

実際に一緒の場所にいたのは、一年足らずである。何かを教えていただいたのは、週に数時間しかなかった。卒論もテーマと先輩が残した卒論だけ与えられた、それの未完成部分を見つけて、自分なりに、方法を考え、実施して、検証をすることで、昇降法の有効性を証明することで、応用化学とは、別の事だった。卒論について、指導を受けた記憶はない。

多くの方や会社や学校が先生のお世話になっているはずだし、海外の人達の付き合いも、私が想像できないほど多く、長く、深いと思う。感謝をしている人も多いと思う。しかし、私のような繋がり人は他にいないかもしれない。QFD?の日本の先駆者だ。私には縁のない世界だ。ノーベル賞経済学賞?に匹敵するのでは?密かに、思っている。上高地の旅も楽しかった。
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帰宅途中、ウビ バカール チレンブの文字が見える。チレンブ(バンドゥンの南東の山地帯の地名、美味しい芋の産地)焼き芋、大変おいしい、焼き芋、1kg、2万Rp(160円くらい)です。
恩師 仲人 恩人
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2016年08月04日

(^_-)-☆突然の訪問

 2757 昨日、出来なかった墓参りを実行した。インドネシアから持ってきたアラックバリやアラックアングレック ワインを渡すために、沼津ではなく清水町の会計事務所に行ってきた。私が独立する前にアルバイトのように夜勤専門で努めていた富士プラ精工で経理をしていた7歳年下の好青年で、経理の勉強をしつつ、税理士試験を受けていた。その後、私が独立した時に、ほとんど同時に、そこを止めて、会計事務所に勤めながらの試験を受けるようになった。まだ、資格を持っていなかったが、その勉強に材料の一つとして、私の会社の税務申告をしていた。実際には資料を作って、その経理会社の資格を持っている人に提出してくれていた。
その内、全ての科目のテストを通過し、税理士として、独立をした。私の会社の経理は彼が、面倒を見てくれている。今でも、太田化工の経理は彼が見ている。先日は、窓会社のような会社のことを書いたが、子供会社のような、沼津の“セピック“の社長とは、中学を同級生だ。40年以上の付き合いだ。

彼はアルコール類が大好きということを知っていて、15年ほど前に、インドネシアから持ってきたアラックバリを彼に渡そうと、自宅を訪問したが、家の前で、ビンを落として割ってしまい、家の前の地面に沁み込ませてしまった。匂いだけしか渡せなかったことを、私は、悔やんでいた。そして、そのことを忘れることはなかった。今日、この酒をやっと、ちゃんと、届けた。彼も、しっかり、そのことを覚えていて、その時は、かなり、ガッカリ、ショックだったと言っていた。

その彼ももう65歳、後継者の問題を抱えている様子。セピックの後継者の問題と併せて、そろそろ、真剣に考えなければならないという話だった。その点、私は、さっさと、譲ってしまってうまくやったなと思っている。
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東名を使って行ったが、なぜかというと、途中、墓参りをするためだった。富士川楽座に駐車し、歩いて、外に出て、墓参りをした。ETCの出入り口の直ぐわきに、歩行者出入り口がある。歩きで10分、私たちの墓につく、お盆の墓参りとした。昨日もそうだったが、いつもは、この道、車でスーと通ってしまったが、今日は歩き、びっくり、太田石材店の工場が道の脇にあった。立ち寄ってみた。お孫さんがいて、私の対応をしてくれた。彼は、びっくりしたと思う、私も彼もお互いのことは知らない。自己紹介から説明した。10歳年上のいとこの会社だが、今は、勿論、家でくつろいでいるはずだという。よろしく、伝えてちょうだいということで、離れた。歩行者出入り口の直ぐそばだった。

清水町からの帰りは、非常に久しぶりに、千本松原の一号線を使った。富士市からバイパスに入った。日本の高速道代は高すぎる。静岡沼津千何百円、インドネシアならこの距離、300円以下だ。そこで、帰りは一般道を使った。

北海道から、全員帰ってきた。孫、一人は高熱ですぐ寝込んでしまった。もう一人も、鼻血が何回も出たと言いながら、会話をほとんどせずに寝てしまった。
中身の濃い一日でした。
会計事務所 後継者 墓参り
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2016年07月24日

(^_-)-☆回顧と現在

 2746 あるものを買いに、久能海岸沿いの店へ行ってきた。これも、インドネシアへ持ってゆくものだ。その途中の海岸通り。

帰ってきて、家の駐車場から出て玄関に向かう道で目に入る状態。四年ほど、剪定をしていないので、うっそうとしている。
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太田化工の社長を辞めてから23年ほど過ぎる。50歳で止めて、相談役になり、責任者から無責任者になり、約二年後のインドネシアへ行ってしまった。そして、相談役という役職も止めてしまった。単なるインベスターになっていた。そして、今は、資本も全部譲ってしまって、単なる創業者だったということになっている。日本にいるときは、気軽に、のぞきに行っている。途中、コンビニで、弁当を買って、食堂で皆さんと一緒に食事をしながら、世間話をする。

昨日、話をしたことは、私が社長をしていたころの取引先の社長の消息についてだった。数社、主な会社があったが、全てが当然、社長は交替している。それらの会社の社長さん、全て、創業者で、私より5歳以上15歳未満、上だった。私ほどではないが、皆さん、若いうちに自立したのでした。当時は、そういう、個人会社のようなものが多かった。名古屋に二社、東京に三社、静岡県に二社だ。そして、それら、すべて、今も取引が続いているそうだ。
当時の社長さん、既に三人亡くなっていたことは知っていたが、昨日、もう一方、亡くなっていることを知らされた。今年、5月だそうだ。そしてその人は、5歳しか違わない人だった。
残りの二社は、息子さんが社長になっているが、本人は、会長で頑張っていて、社長よりも煩く、今でも、太田化工の今の社長に対し、工場長と言っているという、うるさく、文句を言ってくると言いう。
そして、もう一社、引退し、他人に会社を任せ、悠々自適?の方がいる。その人とは、今でも、個人的にお付き合いさせていただいている。

全ての方々は、多いに、お世話になった方々でした。
20年以上も過ぎれば、そんなものでしょう。そりゃそうでしょう。太田化工も今の社長は30歳でなったが、既に53歳になっているのだから。
 健在 回顧 他界
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2016年06月05日

(^_-)-☆奇妙な事

 2697 中国からの設備を使う場所に設置した。明日、配線をする予定だ。取り扱い説明書や仕様書がない。仕方がないから、こちらの業者が何とかするしかない。何とかなるでしょう。月曜から稼働させる予定だ。それにして、注文した張本人の若きダイレクターは、全く、知らん顔、手も足もださない。手も足も出せない。もう、彼は、いない方が良い。いると、余計な、的外れを言う。相手にするのも、面倒だ。従業員全員がそう思っている。

そして、彼のいい加減さのカバーをしなければならないのが、新工場のこと、昨日、貸工場の建設業者に来てもらったが、彼では、理解できても、計画の変更をコミサリスに提案することはできない、そこで、貸工場の建設依頼主に、来てもらった。バンドゥンの人だ。若きダイレクターが、コミサリスに対し、1ユニットで十分だと話したから、コミサリスは1ユニット借りる契約をしたという。そこで、昨日と同じように、今の工場の様子を見てもらった。一目で、分かった。面積として貸工場の二つ分が必要だと。最初からオフィスやキャンティーンは二回にしなければならない。そして、それでは、発展の余地はないと。発展分は中二階を作って、検査部門や各種在庫品の置き場所にする。工場主がコミサリスにアドバイスをすることになった。一ユニットを二ユニットにしての契約か、新たに、二倍の工場を見つけて紹介するなどの手段を紹介するという。それは、それで、承知した。

しかし、それだけでは、安心できない。何もわかっていない人たちが、勝手に決めないように、私の方から、いろいろな設備の設置場所と検査や梱包や金型の整備場所、などを指定し、仕事の流れがスームズになるようにしたいし、キャンティーン、ロッカーや祈り室、手足洗い場など福利施設も場所を指定しなければならないそして、それらは、コミサリスと貸主と私とでミーティングをし、同意、確認をする必要がある。そういうことは、私以外に頭が回る人は、いないので、私がやってやるしかない。

経理関係の相談役になる人に来てもらって、新しく入った経理の女性に、これからの方向を話してもらった。今の、経理担当者が分けのわからない存在で、止めてもらった前ダイレクターが連れてきた人物で、月、火、水の三日出勤するだけで6ジュタ払っている。木、金も出勤すれば10ジュタの給料になり、この会社では、私以外では、飛びぬけた金額の給料になる、そして、雇用契約書がない。社員ではないから、経理が暇な時に、他の部門の手伝いをしてもらうこともできない。そのうえ、前ダイレクターや今の若ダイレクターの分けのわからない出金に目を瞑っている。来週中に、彼と話をしなければならないと、思っている。
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今日の白紫のハス。
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この信号、青の時には残り秒数が正常に示されていたので、故障をしていないと思ったが、赤の時に残り時間を示していなかった。壊れているのでしょうね。
狭い 無能 経理
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2015年12月28日

(^_-)-☆認知症の兆し

 2537 横から車が飛び出してきた。実際、体験した。青信号、普通に通過しようとしたその時、右から、乗用車が侵入してきた。私がその交差点に入ったのは、青に変わってから三台目だった。横からの車は、赤に変わってから10秒後くらいに入って来ている。明らかに、赤に気が付いていない、というか、信号を意識していないで入ってきてしまっている。私は左に避けて通過した。わたしの後ろの車はその車に当たる前に止まっていた。その車は、交差点の真ん中で一旦、停止し、また、走りだして、赤信号のまま通過していった。その人は明らかに高齢者だった。しかし、私より上か下かは見かけでは分からない。これか、今、日本での交通事故の原因として、危惧されていることは、と、思った。認知症テストのハードルを高くしたほうがいいと思う。

二回目のゴルフ、今回は、キャディーを使わないでやった。カートの操縦は、誰かが乗っているとき以外は、リモコンでやる。そして、誰が、リモコンを持つかということになる。山の中の起伏の激しいゴルフ場だが、私は、ティーグランドから、二打目の横まで乗るが、それ以外は、ほとんどカートには乗らない。だから、私がリモコンを持ちましょうかと、言ったら、一人の人が、私がやるよという。そして、その人にお任せした。ほとんど、毎回、ボールの横まで行って止め、打った後、カートに戻るのです。要するに、その人は、それをコントロールしたいのです。それじゃ、リモコンを使う必要ないじゃないの、と思うが、やはり、それをするには、自分でリモコンを持っていて、他の人に、カートを動かされないようにしたいのです。そして、どうでしょうか、私は、ほとんど、途中で乗らないし、クラブをカートに取りに戻らないように、寄せようとパターを二打目に打つクラブとともに持ってグリーンまで歩くからいいのだが、そのほかの人は、大変、行ってしまったカートを追いかけたり、来ないカートを待ったり、チョロってしまった時には、クラブを取りに行かなければならないので、なお大変、私は、みなさんを待つばかり、場合によっては、グリーンまで、さっさと行って、待っていることが多いが、目の悪い人のために、ボールの位置を確認してやる作業もする。これもまた、耳が遠い人に知らせるのに、何度も大声で叫ばなければならない。

グルーン周りにカートをその人が止めるが、これも、その人のボールの傍に止めるので、そのホールを終了した後、カートが遠いところにあったり、次のホールの方向になかったりするので、その人がホールアウトをするのを待たなければならない。また、終わっても、リモコンでカートを動かさないで、その人は、カートに戻ってしまう場合もあるし、自分がリモコンを持っていることを忘れてしまうのでしょうか、カートの方にいる人に、カートを動かすようにその人が頼むこともある。リモコンで、動かしてくださいよと頼むと、あ、そうか、と、苦笑いをしながら、動かす。

他人のバッグに放り込んでしまった、パターがない、ドライバーがない、と、騒ぎだすのは、当たり前。グリーン周りにクラブを置き忘れるのも当たり前。ボールが見えなくなり、あらぬ方向に行ってしまうのも当たり前、ただし、私を含めて、全員が元、社長、数字にはまだ強いようで、スコアーは、無意識だろうが、少なく書く癖はあるが、計算は間違いなく速い。このことで、誤魔化しはきかない。
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富士山がくっきり見えたし、駿河湾も望めた。いい天気でした。
テスト 認知症 リモコン
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2015年11月08日

(^_-)-☆この人へ

 2487 インドネシアで仕事をしている時には、日本へ帰るのは、年平均2、5回、合計で50日間くらいだ。そして、冬の寒い時と、夏の暑い時が多い。私の部屋は、自分であると思っていて、帰れば、その部屋に落ち着く、南の庭に面した明るい広い部屋だ。畳一畳の掘り炬燵が真ん中にあり、冬は、勿論、炬燵として使うが、その他の時期には、単なる机として使う、北側の襖の向こうが台所と食堂になっていて、その食堂は、孫たちの勉強部屋にもなっている。襖を開けておけば、それらの全てが見通せる。しかし、私が部屋にいる時には、きっちり締めて置く場合が多い。というのは、開けておくと、私の部屋の温度を私が思うように保てないからだ。夏は暑すぎるから、冷房を利かす、冬は寒すぎるから、暖房を利かす。開けておくと、その効果を保てないからだ。
だから、ご飯だよと、呼ばれて、襖を開けると、冬は寒すぎるし、夏は暑すぎる。そちらの部屋も私と同じように調整してくれればいいのだが、意見は平行線、私がこの点では孤立状態。

私が外に出かけると、私の部屋の温度を他の部屋と同じにしてしまう。空気を入れ替えると言って、襖も窓の開放してしまうからだ。帰ってきて、部屋に入ると、周りの開けてある全てを閉じて、エアコンをオンにする。冬はコタツもオンにする。冬は、水蒸気発生装置もオンにする。嫌がられる。

12月中旬から帰るが、脛に赤い斑点が出来てしまう。オロナインやメンタムを塗っても、あまり効果がない。ということで、私の部屋の中の状態は、私が望むようにしたいので、協力してほしい。
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一週間ほど前に、ジャカルタは雨季に入ったと、気象庁から、宣言があった。しかし、今週のチカランは全く雨が降らなかった。そして、今日、先ほど、15時ごろから30分ほどスコールがあった。久しぶりに雨音を聞いた。工場からの帰りが16時過ぎ、雨はとっくに止んでいたが、水たまりがあちこちに出来ていた。水捌けが悪いから、当たり前だが、間もなく、これがもっとひどくなった、渋滞も酷くなる。
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カキリマで買ったブンクスのソトサピとご飯、25000Rpです。これが、例えば、ジャバベカゴルフのレスタランなら、税も足されて、80000Rpになる。そして、にはカキリマの味の方があっていて、美味しい。
庵 思うように 心地良く
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2015年11月07日

(^_-)-☆この人の

 2486 癌で胃の摘出手術を受けた後、仲人をいくつか二人で務め、社長を辞め、弐年半ほど準備期間があったが、1996年、52才半ばで、この家から、そして、日本から出た。インドネシアへきてしまった。娘は海外勤務、妻は、静岡市内の学校に勤めている時でした。妻を一人残して、単身赴任、断続的に日本にいたこともあるが、今になって、足掛け19年、実質は17年くらいだと思う。

暮れ正月の2週間ほどは、毎年欠かさず、日本にいた。インドネシアで正月を迎えたことは、一度もない。新年は必ず、身内の集まりにいるようにした。結婚前から、クリスマスイブの仕事帰りにケーキ屋に寄って、買うのは、モンブランに決まっていた。今でも欠かさない。当時は50円だったが、今では250円もする。昔も今も高いと思いながら買う。これも、欠かしたことは無い。そして、スイスからフランスに入り、シャモニー、エギーユ・デュ・ミディから本物のモンブランを眺めに連れて行ったのは結婚して12年後だったと思う。
正月は、身内が集まった時に、インドネシアであまり食べられないので、私の気持ちを込めて、寿司の大盤振る舞いをする。

妻は7年前に中田小を最後に退職し、二年間ほど、天下り的にどこかの図書館の職員をしていたが、そちらも辞めて、完全な年金生活に入っている。しかし、歩いて5分もかからない地元の長田西小でも教鞭を取っていたことがあって、地元ではかなり知られた存在になっているし、今では、孫が、時々、その小学校に通っているし、また、本人、何かと世話をするのが嫌いではないし、町内や学区の催しには引っ張られるし、役員もいくつかやっているようだし、その上、染め物とか生け花とか、家庭菜園とか、趣味のようなものも熱心にやっている。体の具合も、万全というわけではないが、寝込むようなことはないらしい。私も土曜、日曜教室などの準備を手伝わされることがある。

娘がドイツで結婚してからは、日本から、インドネシアから、ドイツの家に何回か行っている。向こうで、妻とも合流する。そして、ドイツ各地やオーストリア、スイスは、婿殿や孫と一緒の旅のコースになっていた。昔、訪れたことがある場所が多かったが、孫が一緒なら、また、別格だった。三世代で、フィルストまでハイキングなんて、思ってもみなかった。サンモリッツからイタリアのティラノ散策も、フランクフルトでソーセージをほおばったことも、全て、記憶に仕舞いこんである。ほとんど、夢の中にいるようだった。
(^_-)-☆この人の 2486 癌で胃の摘出手術を受けた後、仲人をいくつか二人で務め、社長を辞め、弐年半ほど準備期間があったが、1996年、52才半ばで、この家から、そして、日本から出た。インドネシアへきてしまった。娘は海外勤務、妻は、静岡市内の学校に勤めている時でした。妻を一人残して、単身赴任、断続的に日本にいたこともあるが、今になって、足掛け19年、実質は17年くらいだと思う。

暮れ正月の2週間ほどは、毎年欠かさず、日本にいた。インドネシアで正月を迎えたことは、一度もない。新年は必ず、身内の集まりにいるようにした。結婚前から、クリスマスイブの仕事帰りにケーキ屋に寄って、買うのは、モンブランに決まっていた。今でも欠かさない。当時は50円だったが、今では250円もする。昔も今も高いと思いながら買う。これも、欠かしたことは無い。そして、スイスからフランスに入り、シャモニー、エギーユ・デュ・ミディから本物のモンブランを眺めに連れて行ったのは結婚して12年後だったと思う。
正月は、身内が集まった時に、インドネシアであまり食べられないので、私の気持ちを込めて、寿司の大盤振る舞いをする。

妻は7年前に中田小を最後に退職し、二年間ほど、天下り的にどこかの図書館の職員をしていたが、そちらも辞めて、完全な年金生活に入っている。しかし、歩いて5分もかからない地元の長田西小でも教鞭を取っていたことがあって、地元ではかなり知られた存在になっているし、今では、孫が、時々、その小学校に通っているし、また、本人、何かと世話をするのが嫌いではないし、町内や学区の催しには引っ張られるし、役員もいくつかやっているようだし、その上、染め物とか生け花とか、家庭菜園とか、趣味のようなものも熱心にやっている。体の具合も、万全というわけではないが、寝込むようなことはないらしい。私も土曜、日曜教室などの準備を手伝わされることがある。

娘がドイツで結婚してからは、日本から、インドネシアから、ドイツの家に何回か行っている。向こうで、妻とも合流する。そして、ドイツ各地やオーストリア、スイスは、婿殿や孫と一緒の旅のコースになっていた。昔、訪れたことがある場所が多かったが、孫が一緒なら、また、別格だった。三世代で、フィルストまでハイキングなんて、思ってもみなかった。サンモリッツからイタリアのティラノ散策も、フランクフルトでソーセージをほおばったことも、全て、記憶に仕舞いこんである。ほとんど、夢の中にいるようだった。
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太田化工のカレンダーを毎年、貰ってくるが、それに妻の予定がびっしり書き込んである。私はゴルフの日を書き込むだけ。私が偶に帰った時でも、家にいないことが多く、私が、留守番役になる。それでも、最近は、孫の世話も加わって、非常に忙しい様子で、私に手伝いのために、そろそろ、帰って来てほしいようなことをほのめかすようになった。私も、そろそろかな、と思って、来年の二月からは、日本主体の生活にすると決めている。その事を話してある。ゴルフの予約のための帰国日程を、先日、会長に送ったついでに、二月からの予定も伝えた。

パニック障害に掛かって、日本での一カ月間、非常に困惑した日々が続いた。どうなってしまうのだろうかと。その時、老後は二人揃って暮らす期間が長い方がいいと思った。出来ると思う。

気の赴くまま、結構、自由に生きさせてもらったこれまで、私のような、人生を過ごす人は少ないと思う。自分の性格や能力もさることながら、自由にさせてくれたこの人に、大感謝。

妻は出かけて行っていない、冬の日だまりの縁側で、ぼやっと、庭を眺めている、将来の自分を想像する。
そろそろ 潮時 間もなく

太田化工のカレンダーを毎年、貰ってくるが、それに妻の予定がびっしり書き込んである。私はゴルフの日を書き込むだけ。私が偶に帰った時でも、家にいないことが多く、私が、留守番役になる。それでも、最近は、孫の世話も加わって、非常に忙しい様子で、私に手伝いのために、そろそろ、帰って来てほしいようなことをほのめかすようになった。私も、そろそろかな、と思って、来年の二月からは、日本主体の生活にすると決めている。その事を話してある。ゴルフの予約のための帰国日程を、先日、会長に送ったついでに、二月からの予定も伝えた。

パニック障害に掛かって、日本での一カ月間、非常に困惑した日々が続いた。どうなってしまうのだろうかと。その時、老後は二人揃って暮らす期間が長い方がいいと思った。出来ると思う。

気の赴くまま、結構、自由に生きさせてもらったこれまで、私のような、人生を過ごす人は少ないと思う。自分の性格や能力もさることながら、自由にさせてくれたこの人に、大感謝。
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妻は出かけて行っていない、冬の日だまりの縁側で、ぼやっと、庭を眺めている、将来の自分を想像する。
そろそろ 潮時 間もなく
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2015年11月06日

(^_-)-☆この人も

 2485 子供が小学校卒業時期に合わせて、長泉の田舎から、家族で静岡に引っ越そうと考え、先ず、敷地が50坪ほどの丸子の中古住宅を手に入れた。家の前は100坪ほどだったが田んぼが、まだ残っていた。1982年、私も40歳前、静岡に引っ越した。子供は近くの中学校、妻は、先ず、どこだったか、静岡市の北の方の麻機(あさばた)小学校だったと思う。一時期、ちょっとここを離れたが、直ぐ戻って、現在に至っている。

お互いに、それぞれで忙しかったが、別に不満がなかった。転居も多かったが、それはそれで、発展的だったと思っていた。夏の家族3人の旅は恒例だった。海外にも多く出かけた。娘が小学校に入ったころから、国内旅行、山陰地方、北海道や沖縄、星の砂の与論島、そして、“坂の上の雲“の松山地方など、4年の時に、初めて海外へ、香港、広州、桂林、次の年は、シンガポールだったか、その次は、スイス2年連続、山歩き、その次が北欧三国とデンマーク、それから、モスクワ、ポーランド、東ドイツ、この年の10月に壁が崩壊した。直前のブランデンブルク門やポイントチャーリーを東西から見た。家族3人で自由行動、毎年の夏が楽しみだった。二人にとっても、良い思い出になったと思う。こういうことが、娘がその後、ヨーロッパ滞在のツアーコンダクターになった要因の一つだったと思う。ブロンズの髪の孫がいる遠因にもなっている。

バブルの真っただ中、仕事は求めなくても入ってきた。値下げなど言ってくる客先は一軒もない。儲かってしょうがない時期でした。しかし、私は、リクルートという雑誌に、将来の社長募集というコピーで広告を出した。1983年には、大卒工学部を出た人を3人入社させ、条件は、この3人の内、誰かを10年後に社長にする。と宣言した。その後も仕事は増える一方、貸し工場から自前の工場に移った。それが、今の場所である。それでも、パートの女性約20人を含めて、全員で30名の規模だった。毎年、社員海外旅行を敢行した。スキーや食事会を全額補助で、希望者で実施した。大崩海岸の松風閣で忘年会も恒例だった。

家の方はというと、妻も中堅の教師、子供は、高校、大学(東京に下宿)と進学、波風なしの安定期、中古住宅を新築に立て替えた。土地も目の前にあった田んぼを購入し、150坪くらいになった。土地建物の名義は妻と半々にした。妻もそれなりの収入があったので、何の問題もなかった。それが、今の家である。既に築25年になるが、未だに、そう、古くは見えない。ここが、“終の棲家”になるだろう。100坪の庭の3分の1は妻の趣味の家庭菜園にしている。趣味だが、上手ではないと思う。出来あがった野菜は、食べさせられるが、姿形は今イチだし、味もいまイチ、近所の人も配られても、困ってしまうのではないかと思う。偶に学校の子供が収穫を手伝いに来て、持って帰って行った。今でも、続けている。さつま芋、ジャガイモは、保存してあるので、いつ帰っても、それを食べさせられる。庭の次郎柿は、私が楽しみ、熟柿が大好き。石和から送ってくる山梨のコロ柿が好きだ。

娘は、長泉町の田舎から、静岡市に移動し、東京の青山へ、そして、ヨーロッパへと家から遠くなっていた、そして、今は、孫と静岡の家にいることが多くなった。

毎年恒例のプラスチック、ゴムの国際見本市の広告、18〜21NOVジャカルタ クマヨランの見本市会場です。最初に二回ほど出かけたが、ずっと、いっていない。押出は、日本も同じだが、出展が極端に少ないから、行く意味がないし、こちらが教えてやりたいくらいで、私が得るものは何もない。
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ジャカルタ方面のヘイズ、太陽が赤くぼやけている。
行動的 共通 忙中閑
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2015年11月05日

(^_-)-☆この人が

 2484 労働組合の仕事の中で、雇用促進住宅制度を使って、社宅を建てもらった。2年後、社宅の入居者、第一号で、建ったばかりの社宅に入った。会社の敷地内だったので、妻の学校は遠くなってしまった。保育園も変わった。私がほとんど、子供の送り迎えをするようになった。近所の世話好きの、奥さんに面倒を見ていただくこともあった。社宅に入ったのが1号なら、出てしまったのも1号でした。結婚して、二年半後には、20年ローンで2300万円の分譲住宅を購入、そちらに移ってしまった。長泉北小学校の丘の下でした。
仕事は、日本にはまだないという製品を次々に完成したし、その頃初めて登場した樹脂を色々な製品を試すこともした。原料メーカーから、日本で新しく売り出そうとする樹脂で、どんな製品ができるか、丸棒や板やチューブを作ってみてほしいという依頼が次々と入ってきていたのです。今では聞かない、GL樹脂や名前は忘れたが水に溶ける樹脂、PA11,12,などなどでした。EVAやPA6,10それにガラス繊維や炭素繊維で強化した樹脂も、だった。いたずらで、PAとPCを混ぜて真珠のような光沢の板も作ってみた。今で言う、アロイです。当時は、その言葉は無かった。
公私ともに充実とはこのことか、そして、幸い、日本にいる間、ずっと、何もかも上手くいきすぎていたと、今になって、思う。体力的に良く持つなと言われたり、凄い努力だな、と、いってくれる人が多かったが、自信は、努力をしていなかったし、体力もあまり使っているとは思っていなかった。流れるままに行動していた。

その長泉北小学校に子供が入学した。学校まで丘を上って5分くらいの近い場所、妻の学校もその学校の時があって、随分、家庭での忙しさは少なくなった。ただし、授業参観や運動会など学校の行事には私が参加した。卒業式も私でした。
 結婚して、三年足らずの時に会社を止めた、そして、資金稼ぎのために、夜勤専門12時間(18時から6時)の仕事を1年半やった。フジプラ精工でした。給料は当時、破格の月20万円稼いだ。その時期は、案外、家の仕事の分担は、上手くいった。子供の送り迎えは。全面的に私がした。
そして、沼津の志下シゲという干物の産地の真っただ中の50坪の貸し工場で太田化工という会社を立ち上げた。それからが、また、順調過ぎて大変、仕事は増えるし、納品時間を含めて、朝、6時前には家を出て、家に帰って来るのは12時を回っていることが多かった。最初は1ラインからだったが、3年後には3ラインになっていた。装置の償却を特別50%にしても、月600万円売りあげて、200万円の利益だった。それは、それでいいのだが、沼津の工場は狭くなってしまったので、どこか新工場をと考えていた時に、親がいる静岡にもそろそろ、戻らなければならないと思うようになっていた。そして、用宗港の脇の貸し工場に本社工場を移した。子供が小学校の5年になったころでした。私は、1日おきに、車で通勤、安西と下長窪、交互に寝泊りした。沼津の仕事はそのままに、静岡で新しい仕事も増やした。東プラ時代に手伝った北川工業や南部化成、地元の葵プラスチックなど直接取引も始まった。東京や名古屋の電材屋さんからも頼まれた。V0−PPやVO−PAのプロファイルは、日本で初めてだったと思う。

 私と入ったばかりの男性とパートのおばさん3人で2ラインを稼働していた。ある日、30m/分で引っ張っていた製品のベルトに左の親。人指し、中指を挟まれた、隙間は2mmほど、慌てて、引っ張ってしまった。親指の爪がついている部分が千切れてしまった。左手を頭に載せて運転して近くの外科医に飛び込んだ。直ぐに、離れた指先を縫い付けて貰った。爪を取って縫ったので、しっかり、爪があった側を間違いないように練ってほしいと頼んだ。二週間ほどして、ちゃんと、上から爪が出てきた。人指し、中指も裂けた場所を10針ほど縫って閉じた。

入院して一週間ほど点滴をしなさいと言われたが、三日ほど、点滴に通うという条件で入院しなかった。包帯をぐるグル巻きにしながら、休まず仕事をした。しかし、何日間は痛かった。痛くて眠れない日もあった。包帯は水浸し、通院で、医者に叱られた、膿んでも知らないよと。そのための点滴でしょ、と、言い返した。十日後には、抜糸、その後は、仕事に差し支えるので包帯もしなかった。私は、その方が、直りが早いと思っていた。妻は呆れるばかり。
この人がいたから、独立開業ができたし、静岡に通うこともできた。お陰さまでというところでしょうか。
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カリマラン川沿いの道、ジャラン カリマランからの名物景色、ゴミの焼却とテンパッ マンディ(トイレ兼水浴場)です。車の免許証発行所の近くでもこんな様子です。
感謝 お陰さま 相互作用
バリ島、ウングラライ空港閉鎖
10月25日に噴火したリンジャニ山の火口湖の中のバルジャリとい山(リンジャニの子供)、活発な活動が続いている。バリ ロンボック バニュワンギの空港が閉鎖されている。バリに行く予定の方は現地の情報に注意ですね。
Gunung-Rinjani.jpg
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/pageo407.html
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0406.html
Gunung Barujari dengan ketinggian 2.296 - 2376 meter dari permukaan laut (mdpl) dan berada di sisi timur kaldera Gunung Rinjani, meletus hari ini sekitar pukul 10.45 WITA, dan hingga saat ini masih mengeluarkan asap dan debu dalam skala kecil.
Diperkirakan, hingga Kamis 5 November ada 3 bandara yang masih ditutup akibat erupsi anak Gunung Rinjani. "Sehingga diperkirakan sampai besok pagi ada 3 Bandara ditutup yaitu Ngurah Rai Bali, Selaparang Lombok (bukan Lombok Praya), dan Banyuwangi," tutup Brata.
こちらは東ジャワの6月から8月にかけてのラウンという山の噴火の事です。この時もこの辺りの空港が閉鎖された。現在の閉鎖は、こちらが原因ではない。ブロモ山も関係なし。
Badan Nasional Penanggulangan Bencana (BNPB) menyebutkan aktivitas vulkanik Gunung Raung di Jawa Timur sudah semakin menurun sejak beberapa hari terakhir.
posted by 元気な振りの爺さん at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする