2012年03月11日

(^_-)-☆面白いことばかり

1151 私の履歴です
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0069.html 
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0060.html
50年史の20.21ページは、ABSシート以外、大部分が私の仕事でした。プロファイルに関しては、100%私が手がけました。自転車の泥除けは、テナイトブチレートは商品名で、セルロースアセテートブチレートcellulose acetate butyrateという樹脂です。揮発するガスはウンコ臭かった。この製品は結局、両端の切断が洗礼されたスマートなものにならず、一年程度で終わってしまった。ちょっと話しの種にはなったが、実用的ではなかった。これも、曲げ加工は簡単に出来たし、チェックも用のアルミ箔の挟みこみも簡単に出来た。寝食を忘れて、などということはなかった。他の難しい仕事のついででした。正月返上の仕事は泥除けでは無く、ボビンスリーブやPCチューブの生産が間にあわなかったためでした。
押出用の6ナイロンがまだ、無い時代、ワイヤーカットや放電加工機がなかった時代、両足の厚さや長さを同じにするのも難しかった、形を決めるのに大変苦労しましたが、灯油を使うことで一挙に解決しました。誰もが、その方法について、仰天したし、皮肉や批判もしたが、その人達には到底できない仕事なので、納得するしかなかった。その時の方法で今もエッジングやグロメットを作っているし、他の6ナイロンプルファイルでも灯油を使って作っている。エッジングやグロメットは灯油を掛けるだけだが、灯油を循環させ、冷却しながら、他の樹脂を作るバキュームで引っ張る冷却金型にも使っている。
グロメットの切り込みを入れる方法として、会社の上司達は剃刀の刃を上下往復させトントンと切り込みを入れることを提案した。長いチューブを後で短く切るのにその方法が取られていたからです。しかし、私は、カッターナイフの刃を回転させて払うように切り込みを入れることに決めてそれで走った。コの字を作っておいて水分を吸わせ柔らかくしてから、きれば、割れてしまうことはなかった。私一人のアイディアと休日返上の労力(当時は何の苦労とも思っていなかった)の産物でした。だから、短期間で出来上がったのです。

また、11ナイロンと12ナイロンのことだが、どう考えたって12ナイロンの物性が11ナイロンに比べて劣っていた。両方とも可塑剤を適当量混ぜて柔らかさをコントロールするのだが、同じ硬さ柔らかさでも破裂強度やキンクテスト(折り曲げの繰り返しテスト)で劣っていた、製品の艶でも11ナイロンの方が上だった。12ナイロンは11ナイロンに負けたのです。当時、そのチューブでコイリングチューブを作った。これも日本で初めてでした。今ではPU(ポリウレタンチューブ)に変わっていますが、エアーを送る天井から吊るされたくるくるコイル状になっているチューブです。当時はマックスエアネーラという会社に出荷していました。コイリングチューブは一週間ぐらいで出来ました。両端を真っ直ぐにする事やコイルにしてからひっくり返すと数倍の反発力になることも、遊んでいて直ぐに気が付きました。

全ての新製品は、営業からは私にこういうものが出来ますか、という、問合せから始まり、私がやりますと言えば客先から試作依頼を受諾したのです。チームで技術を確立したのではありませんでしたし、大体三カ月以内には客先へサンプルを提出した。
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インフルエンザB型に感染した二人、タミフルを処方されている。体重に依って量が違うようです。
楽しい 短期 休まず

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2012年03月10日

(^_-)-☆東プラ精工

1150 実名をだしても差し支えないと思い、実名で書きました。東洋プラスチック精工(株)TPSの50年史が突然、家に届けられていた。何故、私の元へ届けられたかというと、主な理由は組合長を二年間と前後4年間組合の執行部に属していたからです。労働組合創設の記事は出ていますが、その翌年には教育宣伝部長として執行部にはいった。翌年副組合長、三年目に組合長になっていた。大卒、はえ抜き第一号入社から3年目で労組の執行委員長になっていたからです。

 この50年史の中に、私がいた時代に関して、大きな間違いが二つあります、初代組合長の現在についてです。それと、6ナイロンコの字型プロファイルの製品名が「エッジグロメット」になっていますが、『エッジング』と『グロメット』の二種類です。当時、開発に時間がかかったと書いてありますが、私は3カ月で作りますと納期を明言して、一か月遅れの4ヶ月で作りあげた。現在でもこの製品については私の関係会社がその当時のお客様北川工業のお手伝いしています。TPSでは現在作っていません。詳しくは次のウェブサイトで。
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html
この他にも小さな間違いが点在しています。40年以上前のことですから、仕方がないでしょうが、事実と違っているので、重要な二つだけ書かせていただきました。
 日本アンテナのデルリン(POM)チューブ、昭和丸筒のABSボビンスリーブ、臼井国際産業へは6ナイロンチューブ、厚木プラスチックへはポリカペンダント用PCチューブ、http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage007.html
その他、6ナイロン、11ナイロン、12ナイロンチューブを当り前に作り、POM(ジュラコン)の異形品はソフトクリームの製造販売機の前面に使われた。今でも、同じ構造なので、ソフトクリームを孫に買ってあげるたびに懐かしく思う。ナイロンプロファイルの一号は、66ナイロン二硫化モリブデン30%入り馬蹄形のチェーンコンベアーの滑りガイドに使われたりしていた。岩谷産業が間に入って、名古屋機工という会社に納めました。エッジング、グロメットもそうですが、ナイロンのプロファイルはアメリカのポリペンコ社製が在って、形状と全量は、その物まねです。しかし、私の製法は、物まねではありません、明らかに、全く違います。全てが、日本で最初の製品です。全て、私が製品化したと言って過言ではありません。何日も徹夜をしたし、休日にもほとんど会社にいた。今の妻とデートの後も会社に戻った。

 私が入社した時、素材類(丸棒や板)はドイツの技術を導入して作られていました。しかし、ドイツ人の技術で作られた装置はごつ過ぎる上に、樹脂漏れが多く、また、焼けが発生しやすかった。私は、そのあとじゅつ技術を否定して改良した。金型は簡素化され、樹脂漏れロスも焼けも少なくした。その方法が今でも使われていて、その後の改良はないと聞いている。
 私が係わったのは昭和41年から48年(1966〜73)まで、わずか7年間でしたが、最期の二年間は、N6、N66,PCなどにガラス繊維(ロービング、チョップドストランド)入りのペレットを作る部門まで任されていた。炭素繊維まで入れたペレットも作った。押出のベルト基材とシート以外の全てを見ていた。売り上げでは、私がリーダーでいた部門が会社を引っ張っていた。ロスが多いと言われていたが、開発商品ばかりなので最初から100%近い収率とはいかない。ただし、利益率は群を向いていた。
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 50年史を手にして、大変懐かしく思いました。私が在籍していたころ、私の人格が形成された頃、の記事しか読みませんが、何十年もの間、思いもしなかったことがこの本によって思い出されます。送ってくれたことに感謝します。

 まだまだ これから 昔は昔

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2011年09月08日

(^_-)-☆試練が通り過ぎた

斜めからインドネシアを見る 966
 乗らなかった日本へのチケットはどうしたかって? 約十万円です。一か月以内の変更はできるが、それ以降には変更できないので、キャンセルするしかなかった。キャンセル料金は100US$です。約8千円、どうですか、それほどの損失ではないでしょう。修理費用にちょっと乗せただけと考えれば安いものです。
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 パンガンダランからの帰り道で、バスが路肩で傾いている事故。ジャカルタ、JRガトゥットゥスブロトのスリーインワンの看板、その向こう500M位のところのムナラ ジャムソステックビルの17階のヌサンタラセコムインフォマティカへ行って、治ったというラップトップを受け取ってきた。昨日、私が帰った後、若手もテクニカルスタッフがいろいろ試し、解決したという。Command Promptからnetsh winsock resetしたら治ったとか、私にはわけがわからないので、それ以上の説明は求めなかった。直していただいたが、何故こうなってしまったのか、原因は分からないと思う。多分、フィールスが原因だろうと思うので、いつか機会を見て、全面的にバスターしてもらおうと思う。ダウンロードが遅い、多分、その原因も同じだと思う。
とにかく、ノルマルに戻ったことを確認して、ひそかに喜んだ。

 この48時間、その前の8日間の連続ゴルフの大変さや疲労や筋肉痛のことは忘れてしまったほど、夢中になって何とかしようと行動していた。今は落ち着いている。このまま、日本へ帰るまでに、持つことを期待する。
 
 メールを開けない間に沢山のメールが届いていたが、インドネシアから去る方からの挨拶が2通入っていた。お二人とも大変、懇意にしていただき、お世話になった方々なので、別れは惜しい。しかし、この世は、“人生是離別“です。メールでお互いに連絡し続けることができればいいがと、思う。
 また、日本へ帰ったばかりの若い人から、会社を辞めてしまった。現在、自分で仕事を始めようと、動き始めたところだ、というものもあった。日本の会社へ戻って、インドネシアでの仕事のように任せてもらうことができない、環境に嫌気をさして、止めてしまう、若者は多い。自由度が全く違うのでしょう。
 私が申請していた、装置や金型の購入許可が下りたので、発注OKです。というのも入っていた。こちらへ持ってきたい、装置については、どうにもならないらしい。予ねての考えを実行することにし、今後の1か月、日本にいる間に、段取りをしてしまいたいと思う。びた一文出せないと言っていたにもかかわらず約120万円のOKが出ただけでも満足しなければならない。残りの300万円弱は、私が何とかしようと思う。

 装置や金型の日本への輸出の話は他にも有って、その仲介役をすることにもなりそう。1銭にもならないが、頑張ろうとしている日本の若者のために、一肌、脱ごうと思う。会社の19才の若者には私の技術を教え、彼が引き継ぐ一人になれば、40年以上は私の技術が生き続けるし、それが、基礎になり続けるだろうことを考えると、やはり、金銭の問題ではなく、自己満足の世界だと思う。

 満足 奉仕 試練

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2011年07月30日

(^_-)-☆気になることがちらほら

斜めからインドネシアを見る 927
静岡駅へ着いた時の高校野球の静岡県大会決勝戦が始まった。タクシー運転手にどことどこかと聞いたら、静岡と磐田だった。その後忘れていたが、夕方になって、母校が甲子園出場を決めた事を知った。おめでとう。一回戦くらいは勝ち抜いてほしいと思う。
ガルーダ機内はガラガラ、今回の運賃は10万円弱でした。燃料サーチャージがかなり上がっているにしては安いと思った。それでも、今は往来が少ないのでしょうか。聞く処によるとレバラン前何日かは今の二倍以上だとか。会社の大部分の日本人もこの時期の帰国を考えている。会社が負担すると思うが、人数が多いだけに、負担は大きい。気の毒である。
今回は旅行会社に席を予約しないように云ってあったが、予約をしてしまってあった。だから、予約がどの席だったかなどチェックしていなかった。カウンターで席を注文したら、もう注文してあって、エコノミーの一番前だと言われ変更できないと言われた。一番後ろを注文するのが普通だったが、事もあろうか、一番前とは。ショック。機内へ入って直ぐに、客室乗務員の人に、ドアがしまったら、すぐ、四つ開いている真ん中のシートがあったら、知らせてほしいと頼んだ。その、客室乗務員は日本人で美しい人でした。ドアが閉まったとほとんど同時に「沢山ありますからどこでもどうぞ」と云いに来てくれた。私の列は10でしたが、何と11の列が空っぽだった。目が覚めた時に、朝食を配り始めていたくらい、ぐっすりと、眠らせてもらった。

 この日は成田でオマケを付けた。四日ほど前から右足親指の付け根に切り傷を受けたような痛みがしだし、その部分は切り傷が見えないで、ただ、黒い5mm×3mmくらいの楕円が見えるだけである。歩きにくく、足の甲まで晴れてきてしまっていた。と、同時に喉が痛み出した。あの寒さを感じた時からである。知恵熱などでは当り前ですが、ちょっとだけ深刻に考えて、成田空港第二の日本医科大学成田診療所へ依ってみた。あの、パニック障害(その時には知らなかった)で、死ぬかと思って飛び込んだ時とずいぶん気分は違っていた。
 足の血を抜いて消毒してお終い。喉は治療なし。痛み止めと可能止めと副作用防止の胃薬を処方された。3割負担の1200円を払った。この時にまた、おまけ、1月に海外傷害保険に加入してくれて、保険証を携帯していた。この診療所はこの保険が適応される。そこで、控えを出して、ふと見たら、3月末で期限が切れていた。三カ月間しか入っていなかったのでした。一年加入だと思い込んでいたので、今年末まで有効だと思っていた。そこで、国の健康保険証を使った。只か、1200円かの違いなので、ま、いいか。
 早速、月曜日に確認してみようと思う。IMG_1215.JPGIMG_1214.JPG
今は孫たちとくつろいでいる。インドネシアからの土産のパンダのぬいぐるみ、2000円。成田第二の成田エクスプレスのフォーム。
 リラックス 帰国 賑やか

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2011年07月20日

(^_-)-☆仕事をしながら旅

斜めからインドネシアを見る 917
昨日は日本からインドネシアへ輸入したい機械と装置について、ネゴや打合せをしたが、今日は、逆にインドネシアから日本へ輸入したい装置や金型などについて打合せをさせてもらった。狙いは中古の安い装置を日本から手にいれ、新しく作る装置や金型でインドネシアでもできるものを安価で手に入れることです。どちらも、それぞれの国の中で手に入れるなら、最低でも三倍の費用がかかるでしょう。
 こういうことをするのに、一番厄介なことは、それらを使う人が使いこなせるかどうかです。頭から、どこの何者かもわからないものを使えるか、と、敬遠されてしまうことです。本当は、そういう人たちが今まで使っていた装置や機械より優れ物で、使いこなす音が出来れば、従来より、品質が向上するだろうし、生産速度も上がるだろうし、収率も上がるはずのものを手配するのです。今までより、使い難いものを押し付けるはずがないのだが、それを他人が扱うのだから、本人は、使い慣れていないので、今までより扱いが難しい。しかし、それを乗り越えてもらわないことには、その場に進歩は無い。
 という、困難さは以前にも書いているが、自分がやってしまわない限りは永遠の問題である。もう一度書くが、教える私より、私から技術を受ける側の人の方が重要である。不器用な人間に教えても仕方がない。積極的に立ち向かわない人に教えても仕方がない。
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 それにしても、組織というものは面倒なものである。どちらも、ボランティア的、赤字アドバイザーなので、組織のトップから途中の人物、最後には、使う担当者にまで根回しをしなければならない。そしてその根回しが、効果を発揮するかどうかも分からない。私がぜひやりたい、ぜひやってほしいということを説得するのだが、何故、私がこうい事をするのか疑問を感じる時がある。自分が買って自分が使って、自分が物を作って、自分が売るなら、根回しも、説得も、気を使うことは無い、余分な神経を使うことは無い。それも、自分でやろうと思えばできるのに、何故だと思う。
 図面や見積書を受け取る期限が月曜日だし、その他の仕事は、会社にいなくても出来る、いわゆる在宅勤務でもできるので、18:00過ぎに出発して、先ほど、パンガンダランに着いた。6時間でした。ガソリン給油で一回車から降りただけだったので、疲れた。半分寝ながら、この文章を書いている。約一か月前に来た時に蕾が非常に多かった、予測では、一ヶ月後に次々と開花することになっているので、明日が楽しみである。また、ジャングル探検である。
 
 輸入 見積もり 仕様書

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2011年05月23日

(^_-)-☆特異な?日本人

斜めからインドネシアを見る 917
今どき海外で仕事をしている人は特別ではないし、これからも、どんどん増えるでしょう。しかし、自分から望んで、となると、ちょっと特殊になる。おそらく、海外で仕事をしている日本人の大部分は辞令によって日本から出た人たちでしょう。私のように望んで、海外で仕事をしているのは、特殊な日本人の一人に入るかもしれない。ただし、こういう人もそう珍しくない。
その私が、考えさせられた人がいた。その風テンの寅さん、といっても、映画の寅さんとは全く様子が違う。かなり紳士に見えるし、どうみても、どこかの会社のトップに近く見える。その人と、最期のゴルフを一緒にさせてもらった。間もなくタイへ行ってしまう。バンコクかチェンマイに三カ月ほど滞在して、その後のことはまだ、決めていない。滞在ビザの期間のことで分からないところがあるので、どのくらいの期間滞在するかは、入国してみないと分からないらしい。彼は、早稲田の理工を出身、団塊の世代の真っただ中の人、その時代にこの学歴は相当の秀才である。国立では東大の理一、私立では早稲田の理工と云われていた時代です。学園紛争のピーク時でもあった。卒業後大手ゼネコンに入社、海外の建設現場の監督を長期でやっていた。日本の援助資金で学校や病院の建設に係わることが多かったという。
それが、50才を過ぎたころ、15年ほど前から、退社して、しがらみから離れて、海外のあちこちに移動しはじめた。日本へ寄ることはないそうです。海外から海外へといどうしている。資金は、海外勤務の時の給料と今は年金も追加されているので、悠々たるものらしい。シティーバンクに預金をしてあるので、世界中どこでも自由に引き出せる状態になっている。航空券も賢く格安を手に入れることが出来るし、宿も安宿で十分、順応できるので、困ることは何もないそうで、ネットも今は日本より遥かにWiFi、ワイヤレスランが発達しているので、どこでも只でアクセスできるという。各地の情報を収集したり、何かを予約したりするのももっぱらネットで済ましてしまうそうです。この順応性というか、融通性というか、余裕たっぷりである。
インドネシアの旅をしていて旅先でこういう日本人に会ったことはないし、こういう日本人がいたという話も聞いたことが無い。しかし、いることはいる、と、分かった。
こういうことが出来るということがすごいと思う。色々な原因、理由があって、私には同じ様にはできない。出来てもしない。そして、こうしたいとも思わないし、羨ましいとも思わない。人それぞれに生き方の状態に思いがある。生き方の問題です。だから、「できる」と「する」は次元が違う。
アラックを作る原料になる椰子の木のような実、と、椰子の木の二種類IMG_0824-.JPGIMG_0824.JPG
風テン できる 別れ

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2011年05月05日

(^_-)-☆逆もまた真なりか

IMG_0179.JPGIMG_0178.JPG斜めからインドネシアを見る 899
 日本語が出来ることは就職の為の大きな武器になっていることは明らかで、日本人も、彼らを必要とし、頼りにしている。それは、それで、日本語を一生懸命勉強して出来ようになったので評価したい。しかし、日本人が、その人一を必要とするということを私はまったく評価しない。日本人の能力の足りなさと手抜きを補う手段としているにすぎないからだ。本来は、日本語を使わないで、インドネシア語で何でもするべきことである。日本語でやろうとすることが間違いだし、逃げ出し、怠慢だと思う。
 日本語ができるインドネシア人は、学校の成績は平均より高いことはわかる。しかし、日本語が完璧というわけではないので、ミスコミも多い。その上、悪いことに、インドネシア語でいうソンボン(Sombon)“威張り屋”の比率が高い。日本人のソンボンも多いが、それに、すり寄るインドネシア人のソンボンも多い。比率です、全員がそうだとは言いません。

 私の場合や、仕事が出来るインドネシア人の場合、他のインドネシア人から、上司や日本人に、頼んでほしい、と頼まれることも多い。だから、他の日本人を批判したり、他のインドネシ人にもっと仕事をしてほしいと頼むことが多いし、労働条件などで、会社の皆の意見を持って行くことを頼まれたりもする。そういう、私や従業員が頼りにしているインドネシア人は日本語が出来るインドネシア人やインドネシア語が出来ない日本人にとっては、目の上のタンコブだ。だから、自己防衛の為に排除しようと行動や発言をする。自分の欠陥だとか落ち度だとか、説明不足だとか、間違いだとか、自分を振り返ってみるとか、相手の云うことを相手の立場に立って聞いてみようとか、そういう風には思わない。余裕がない、能力がない人とはそういうものです。どちらも、日本語が出来るだけのことで、仕事はできない人です。日本人の中には、俺は日本語が出来る、だから、お前たちのと違うぞ、と、誇らしげに日本語で他の日本人と話して、どうだ、お前たちには分からないだろう。だから、5Sもホウレンソウも出来ない。俺はできるぞ、と云う態度の人もいる。私から見ると、そういう人は、他の日本人と日本語で会話しているが、どうも、TPOをわきまえていなし、云っていることが、今一、壺をえていない。日本語の使いかたが変など、いろいろ問題がある。こりゃだめだと思う。

 付け加えておくことがある。インドネシア語の進歩が遅い人、覚えが悪い人、使おうとしない人は経営者としても現場指導者としても、能力が低い人です。これは、逆もまた真です。
仕事が出来る人は、現地語の進歩が速い。これは、逆もまた真なりとは言えない。インドネシア語が出来るインドネシア人が仕事も出来るとは言えないように、現地語が出来る日本人が仕事も出来るとは言えない。

カラワンのPVCコンパウンドを作っている会社とその前の通りのワルン(食堂)の親子三代。
気違い 言葉 問題

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2010年08月21日

(^_-)-☆海外指導始め記念日


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斜めからインドネシアを眺めよう 703
何の記念日でしょうか。私の記念日です。子供のころから、夢だった、海外で仕事を教えることが実現した日でした。太平洋戦争で父親の世代が大変迷惑をかけたことは子供のころから知っていた。その償いを少しでも肩代わりしなければならないと思っていた。1996年の今日、インドネシアへ赴任してきました。もう、14年になります。昨日の写真のPT.KITAGAWAでした。以来、インドネシアから出たり入ったりしましたが、インドネシア滞在は正味でも10年は超えているでしょう。
 名古屋空港、当時は小牧からバリ経由でジャカルタ入りをした。ジャカルタへ着いて町を通り抜ける時、タマンアングレックの手前の高架を通過中、ジャカルタの夜景が素晴らしかったことを感じた。既に大都会だった。しかし、何日か後に、汚い、臭い町だと感じ直すことになった。何カ月か後には、住みたいと思わなくなった。
 ジャカルタを通り越し、ブカシを通り越し、三人(射出、経理、押出)が、リッポチカランのクラウンコートへ案内された。その他の四人はチトライン(当時のロータリーを左折すればEJIPですが、そこを真っ直ぐ行った右側のホテル)どちらも、今でも健在。いきなり、地方でした。一台のキジャンに七人乗って会社へ行き、今の月山の辺りにあった飯場でミーティングをした。トイレは簡易でした。
 工事が始まったばかりで、荒涼たる風景の中、乾季だったので、砂塵が舞い、その向こうにヤギや牛や羊が草を食む姿が見えていた。すごいところへ連れてこられたな、もう少し(二三カ月)後の方が良かったのではないかと感じた。初代の現地社長さん、私より5才年上でした。その他の6人は30〜40歳と若かった。私は52歳でした。社長さんの張り切りようは異常と思えた。トヨタのフィリピン工場を立ち上げたという経験の持ち主で、英語がペラペラ、現地の人にいきなり英語で怒鳴りつけているところに出会った。そのごも、一緒に赴任した若い日本人に怒鳴り声が飛んだ。そして、私にも、飛んできた。すごい人が世の中にいるものだと、インドネシアへ来て初めて知った。

 その後も、インドネシアで、“ジキルとハイド“そっくりな人と多く接することになる。PT.AFのN、PT.KIのHとI、PT.TAのKなど、すごい人たちに接することになってしまった。社長をしていた時にはこういう人種が世の中にいることを全く知らなかった。プッツン病を抱えた可哀そうな人たちが多いことを知った。外の顔と内の顔が極端に違う人、あの人が?と思うくらい丁寧な人が、自分のほうが地位が上だと思えば、ヒドイ、乱暴な言葉で怒鳴る。逆らったら、相手を震え上がらせる。殺されるのではないかという恐怖を感じさせる。
その間にも、インドネシア人や取引先の人々に押出のことを伝えてきたし、実際、多くの人や会社の手助けをしてきたと思っている。
ただし、その会社の運営者としては私の存在は邪魔だったのでしょう。オーバーにいうと、支配者は、支配する対象の人たちが、他の人のことを信じてしまい、付いていってしまうことを恐れる。キリストが迫害され、日本でも、信長がキリシタンを弾圧したり、比叡山を焼き払ったりしたのと同じ理屈と心理だと思う。
 そんなこんなで、今も、インドネシアにいて、追い出された会社に堂々と戻っているわけで、巡り合わせというか、運命というか、人生いろいろだと思う。もうしばらく、インドネシアにいるでしょうが、年も年だから、今後は、肩の荷を軽くして、張り切らないで、あまり、出る釘にならないで、経営の人から疎外されないようにおとなしくしようと思うが、インドネシア人の私への親しみは他の日本人がどんなに色々な方法を使おうとしても、私に並ぶことはできないでしょうから、そう長くいない方がいいと思う。

 主がいないKURSI SOMBONGです。この机の前に立たされて、ふんぞり返った十歳年下のおバカさんから「無責任でしょ、」と、怒鳴られた場所です。原因は、手前の机に席にいた秘書兼通訳の根も葉もないゴシップの告げ口でした。自分で確認する能力を持ち合わせていないので、変な通訳のいうことを信じてしまって人を恨んだり、阻害したり、評価をしたりする人でしたから、インドネシア人は気の毒でした。それらのインドネシア人の殆どを呼び寄せて、今、一緒に仕事をしている。全員が、私がインドネシアならどこでも行く処へ付いてくるのです。最期(7月末)まで、PT.KITAGAWAいた、通訳以外の人たちも今月末から、私の元へ来てもらうことにした。

PT.NANBU2(旧PT.KITAGAWA)から、PT.NANBU1を望む。背丈ほどの雑草はつい一週間ほど前に刈られた。
記念  転機  人種

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2010年08月08日

(^_-)-☆活気が出ることを期待


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斜めからインドネシアを眺めよう 690
 射出の仕事が始まるようです。9日から12時間ずつの二シフトで、24時間運転をするそうです。1600トン、800トンの大型成形機の仕事です。テレビと車の関係です。いよいよ、射出も動き出す。射出が動き出せば,儲かるかもうからないかは別にして、色々な点で規模が大きくなり、にぎやかになり、空間が少なくなり、活気が出るはずである。
 と、同時に、心配事もある。準備は万端だろうか。
 私自身、ここ二三カ月、仕事人間、会社人間になってしまっていて、チカラン圏内から外に出ていないので、ちょっと、欲求不満がある。それもこれも、思うように仕事が進んでいないからである。気持ちが空回りをしている。結果が出ていない。

 先日、MM2100の外の近くに電器関係の店があって、ちょっとした電器部品は買うことができると写真付きで書いたが、今日は文房具屋を紹介しておく、写真は載せていないが、MM2100のルコの中のボルネオという店です。10年以上前からあったが、一年半以上前の近くのディスコの火事で閉店をしていた。つい半年前ほどから再開している。PC関係、プリンター関係三メーカー(ヒューレットパッカード、エプソン、キャノン)の物が揃っていて、インクも揃っている。わざわざ、ブカシやチカランまで行かなくても工業団地の中で買えることを知らない日本人は多い。ソトクドゥス ブロックMの並びです。ちょっと目立たない、日本食レストランやサクラ旅行社や両替所からはちょっと離れていて、前を通ることもない。
 在庫が無ければ二三日の内に取り寄せてくれて頼めば会社まで届けてくれる。これは、電気部品屋さんも同じ。
MM2100の近場では、マクロ現在ロッテマレットでも電気製品や文房具を買えるが、かなり、おおざっぱというか、説明を聞くことはできないし、品そろえが少ないので、求める物に当たる確率は少なし、取り寄せやデリバリは出来ないので、不便である。
インドネシアへ始めてくる人は、仕事で必要な部品や工具や計測器などがインドネシアでは手に入れることが、出来ないとか、出来るにしても、相当難しいと思っている人がほとんどです。しかし、案外簡単に色々なものが入手できるのです。日本製のものでも日本と同じくらいの値段で買うことができます。一般的には日本より安く手に入ります。ただし、初めての人は、知っている人に聞かなければならないし、一緒に行ってもらうとか、買ってもらうなど、他人の手伝いが必要です。

ルコ  近場  部品屋

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2010年06月25日

(^_-)-☆最終段階


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斜めからインドネシアを眺めよう 647
 先ほど、また、新しい金型を手に入れた。殆ど、ワイヤーカットで仕上がるが、各種行程で、5日掛る、それを、無理を言って4日で仕上げてもらった。今回が最終の金型になる。表面の綺麗さを追求してきたが、そろそろ、最終段階に入ったと思う。満足をしない限り、もし、仮のOKが出ても、もっと上を追求するのは当り前である。追いかけて、もう一形、作ることにした。念には念を押すつもりだ。
 今回のこの仕事は私にとっては久々の試練だった。この歳にして、こんな試練に会うとは予想していなかった。予測が甘かった。やればやるほど、深みにはまって行って、本質から遠ざかってしまうような気がして、なにをやっても、思うような結果が得られなくて、途方にくれそうになった。こんな自分が情けないと思った。今に何とかなるだろうと思って手を打っていたが、途中から、これは、どうにもならないかもしれないと思うようになっていた。それでも、何とかなる、何とかしなければならないと思うことの方が勝っていた。
 引くに引けない状態になっているので、そう考えるしかなかったし、性格的にも引くことはできない。

押出成形ができる社員を出来るだけ早い時期に送って欲しいと要望している。遅くても9月頃にはインドネシアにいてほしい。私は、早く、用無しの居なくてもいい人間になりたいと思っている。私と同じような人はいるはずがないので、将来、私のようになれる可能性のある人を望んでいる。PT.KGの時は、全く、意欲がないというか、行動をしない若者ばかりで、三人続けてNGで帰国させた経験がある。どうにもならなかった。
二の舞はしたくないので、出来るだけ、自分で行動する人を欲しいと思っている。インドネシアで押出成形をすることは、良い経験になり、決して無駄にならないと確信するので、来る人が、積極的な人なら、インドネシアのため、インドネシア人のため、インドネシアの他の日系企業のために、大いに、働いて欲しいと思う。早く、来てほしい。

 早く来て、まず、インドネシアの押出の現状と原料の現状を知って、それに、なじむとともに、気持ちを慣らせてほしい。張り切ってやろうとしても、いきなり腰砕け等と言うことも、経験してもらわなければ分からない。インドネシア語で早く話せるようになって欲しい。そのためにも、実際に表面に出て、仕事をする前に、助走をしてほしいと思っているので、やはり、早ければ早いほど良いに決まっている。
孫の写真、私が気に入っている二枚。
派遣依頼  助走  スタートダッシュ

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2010年05月18日

青春謳歌の一幕


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斜めからインドネシアを眺めよう 610
 今は、知らないが、当時、卓球の試合の団体戦は、シングル、シングル、ダブルス、シングル、シングルという順の5ゲームで三勝を挙げた方が勝ちという形式だった。四人で団体戦組み、その中の実力一二の二人がダブルスを組む。順番は、作戦で、相手のNo,1とこちらのNo,4が当たるように考えるとか、No,1同士をぶっつけようかと考える。一般的には、No1、No3 ダブルス、No2、No5にするチームが多いので、こちらの誰をそれにぶっつけるかを考える。相手の一人一人の大多数は中学校の当時からの知り合いが多いので、大体の実力は分かっていた。他の学校は、顧問のコーチが決めていたようだが、私にチームにはコーチはいないので、キャプテンが主に決めていたが、メンバー全員で、相手の誰と当たりたいとか、当たりたくないとか言い合って決めていた。それは、それでいいのだが、高校二年の時、静岡県中部大会団体戦の準決勝で、私はその時、自チームのNo3として、ダブルスの後、4ゲーム目にエントリーしてあった。本当の作戦は、三試合で、二勝一敗で来て、私は捨て石で負けてもいいように相手のNo1にぶつけ、二勝二敗でチームのNo1が最期の相手のNo4に勝って、三勝二敗で勝利する作戦だった。処が、作戦に反し、負けてはいけないダブルスで負け、そこまで、一勝二敗になってしまい、私が負ければ終わりだった。私は中学の時にその相手と二回試合をしているが、簡単に負けてしまっていた。自分のチームの全員が、もう、だめだと、あきらめてしまい、ヒドイことに、試合場所の周りで応援するはずの自分の学校のメンバーが誰もいなくなってしまった。私の次に出場するはずのNo1でキャプテンもいなくなっていた。何だこりゃと思った。相手の学校の応援団は強制的だろう、大勢来て大声をあげていた。
 試合が始まった。私が簡単に負けるはずだったが、最初から、どうも様子が変だった。私のサービスを相手はことごとくリターン出来なかったし、相手のサービスは簡単にいきなりスマッシュを決める事ができてしまった。相手は、そんなはずではなかったという焦りが、もっと、緊張を膨らませ、がちがちになっているのが分かった、試合をしていて相手が気の毒になってしまった。相手のコーチがいろいろ指導したが、空回りだったのでしょう、最期まで、ペースをつかむことができなかったし、打つ手を変えようともしなった、ずるずると、私が勝ってしまった。自分でビックリだった。
 回りを見ると、他校の女学校の中学校当時から知り合いの友達が大勢、私を応援してくれていた。中に、私が片思いで、それに気がついてくれず、本人は友達と思っている女性も応援してくれていた。勇気百倍だった。自分のチームのメンバーの応援など必要なかった。もう、夢見心地で、アイドルになったような気分だった。
 勝って、5ゲーム目に出るはずのキャプテンはどこにいたかというと、着替えてしまって帰り仕度をして、自転車でグラウンドをぐるぐる回りながら私が着替えて出てくるのを待っていてくれた。帰ってしまわなかったのが救いだった。急いで着替え直し、会場に戻って、試合に臨み、簡単に勝って決勝戦まで進んだ。決勝では私が5番目になったが、私までまわって来ないで負けてしまった。こんな、チームでしたが、先輩も後輩もなく、和気あいあいだし、キャプテンとは小学校からの一年上の兄さんのような付き合いだったし、練習が終わって、自転車の後ろに乗せてもらい、二人乗りで、帰宅する機会も多かった。高校まで同じで、大学は違ったが、国公立選手権の会場や私が郷里に帰った時に静大の卓球部で先輩にお世話になったこともあった。
 静岡県庁の事務長を長期で勤め、長い間、県知事の補佐をしていた。卓球部のOB会で数年前に会って其の当時の話をしたら、覚えていた。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
スマトラ島のトバ湖の西の端にあるシピソピソの滝、高さは、一見しても、那智の滝の倍はありそうだ。
 中部ジャワのブンガワンソロ(インドネシア一の大河)の渡し船。清き流れは嘘、茶色く濁っていて、流れ来るゴミの量は半端じゃない。
 先輩  番狂わせ  実力通り

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2010年03月16日

斜めからインドネシアを眺めよう 547(有名人ヤント君)


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ヤント君の卒業式のはずです。日本語学校2年、大学4年の6年間、身元保証人になり、学費や生活費の援助を続けてきた。今日の卒業式に帰ってきて出席してほしいと言っていたが、会社の立ち上げの時で、インドネシアから離れることができず。大変残念だが仕方が無い。静岡県立大の大学院にあと2年通うことになっているので、その、卒業式にはぜひ、傍に居てやりたいと思う。
彼の日本での活躍ぶりは、予想以上で、多くの日本人の中へ入って、インドネシアに関する色々な催し物の手伝いを中心になってやっているし、外国人学生のための相談施設にも県から頼まれて職員として採用されているし、インドネシアの民間大使にも県から任命されている。多くの日本人に知られているインドネシア人の代表者である。バックアップしている私としては鼻が高いが、日本人の誰もが、私のことは知らない。保証人は誰なのか、今どこにいて何をしているのか、彼に聞く人は誰もいない。彼と接触や相談や手伝いを頼む人にとって、そんなことを知る必要はない。
彼は先日里帰りをして、パダンへ慰問し、静岡で募金したお金を届けた。アチェ、ニアス、ジョクジャ近くのバントゥール等の地震や津波の大被害の度に静岡駅前その他で募金活動をし、大使館を通して寄付をしている。静岡新聞や朝日毎日読売の地方版やテレビでも報道されていた。静岡で私は無名人ですがヤント君は有名人です。つい最近は、浜松でインドネシア文化紹介の催しがあり、それのインドネシア人側の代表をして、スポンサーをかき集めたり当日は司会進行役を務めたり、バティックファッションショーモデルも務めた。それらの時の写真が彼の友人のフェースブックによって紹介されている。その中から何枚か頂いて、紹介している。背が高くてやさしい顔をしているので、日本女性にも不安が多いようです。
大学の感謝会と浜松のインドネシア文化祭の打ち合わせ風景でしょう。
  http://nanbuindonesia.web.fc2.com/yanto.html

一月から30日間になっていた入国ビザが出入国管理事務所に申請すれば、一回だけ延長し、合計で六十日間の滞在が可能となった。東西約五千キロに及ぶ広大な国土に、一万七千以上の大小の島々を抱えるインドネシアを存分に楽しむチャンスが広がったともいえそうだ。延長の手続きはインドネシア国内各地の出入国管理事務所で受け付ける。必要な書類は(1)申請書(各事務所で配布)(2)旅券及びそのコピー(3)取得済みの到着ビザのコピー(4)帰国用の航空券−で、手数料は二十五ドル。延長は一度のみ可能で、三十日間有効。申請人本人の出頭が必要。延長手続きは五営業日かかり、滞在期限の七日前までの申請が望ましい。

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2010年02月19日

斜めからインドネシアを眺めよう 522(任せてほしい)


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今まで、仕事の環境を何箇所か経験した。
それを大きく二つのパターンに分けると、押出成形だけと、射出成型と一緒になる。
前者は、裾野の富士プラ精工で夜勤専門の一年半、そのあと20何年かの太田化工にいた時、そして、直近のインドネシアでPT,AFMI, PT.MAKUTAのとき。
後者は、22歳から東プラ精工の7年間、1996年から、PT.KITAGAWA,
もう一つの分け方はその場を私が仕切ったか、他の人間の下にいたかで分けられる。その場合は、PT.AFMI時代が、射出と一緒の会社の方に移る。
 それはまた、製品を売る会社と技術を売る会社にわけた場合と、作業者(オペレーター)重視か機械(金型)重視かで分ける場合に見事に一致する。

PT.AFMIは押出というより軟質PVCのガスケットとチューブを作っていただけで、技術は持っていなかったし、樹脂の知識も全く素人だった。だから、押出成形の会社とは言えないものだった。様々な仕事を引き受けることはできない会社だった。それを、私が、何でも引き受けることができるようにしましょうと、手伝い始めたが、経営者に見事に拒否され、私が作った装置と、私がお手伝いしたお客さんと、それぞれの金型を与えた処で、追い出された。前日のハイド氏状態でした。

これは一例で、私がやるか、任されたとき期間は、仕事が楽しかったし、大きな実績を上げ、私も多くの蓄えを作ることができたが、従業員にも大きな配分をした。皆さんと利益を分かち合うことができた。評価も利益配分も私がやったからです。
ところが、それ以外のときには、押出部門は、一種の荷物、邪魔者として扱われた、私の部下たちも、冷遇され、給料の評価も低くされた。押出は人間が作る、射出は装置、金型が作る。と、いくら口を酸っぱくしていっても、射出しか頭にない経営者の押出に対する評価は低かった。若いころ、サラリーマンのころからそれは強く感じた。インドネシアへ来て、射出は掃いて捨てるほどあるが、押出を出来るのは私一人だけなのに、うまく使うことができないどころか、成功を妨害するためのイジメが直ぐに始まった。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.html
インドネシアの主な島には全部行っています。旅行記はこちらからです。それでも、行きつくしてしまったと感じることはない。来週は、パレンバンへ行くことになっています。

PT.NANBUの押出部門の新戦力となる、押出成形ラインの何台かです。工場が出来上がるのを待っています。


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2010年02月05日

斜めからインドネシアを眺めよう 508(いい加減にして)


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鬼は外、福は内の豆まきの日でしたか。インドネシアの鬼はどこ?こういう習慣は無いようです。
こういうことになるのではないかと、あまり期待していなかったが、ジャックだかダックだかに、お願いしてみることになった、ワーキングワービザの申請と取得でしたが、やっぱり、時間が足りないと、断られてしまった。書類は返してくれないし、今の会社の延長についての申請についても一連の申請もやる気が無いらしい。
 そこで、今までも私的にお願いしていたローカルのエージェントに頼むことにした。最初から、そうしようと思っていたが、1200US$を払わなくて済むかもしれないと言われて、日系のエージャントに頼んだのでしたが、事務的に簡単に却下されてしまった。
ローカルエージェントに1200US$を払って、新しい会社のワークングVISAまで、一連の申請をすべやってもらうように頼んだ。これで、右往左往しないで、安心して、待っていればいいことになった。こんなことで、他人に振り回されたくないし、費用は自己負担なので、安くあげたいものです。

 まだバカな話が尾を引いているようです。或る会社が、日本から輸入している押出成形品の現地調達を目指して、成形をできる会社を探している。最初、私がいなくなった後のK社に見積もり依頼をし、安かったので、試作を頼み、製品が、できあがったが、K社は量産を引受けなかった。そうこうしているうちに、K社は解散してしまった。K社が二年ぐらい前に出した見積もりが、殆ど原料価格と同じだったのです。それに気がついた、日本人が、製品はOKになったが、その後、逃げまくったのでした。其の客先からの電話にも出ない、メールにも返事をしないで知らん顔を通した。
 客先はその事情を知らないので、その、とんでもない価格を指し根として、押出をできる会社を探している。そして、射出成型の会社に、どこかないかと、訪ねて、回っている。それらの、射出成型の会社の日本人が私に話を持ってくる。同じ話があちこちから来る。そして、そのバカバカしい、価格が示される。その都度、事情を説明しなければならない。成形は問題ないが、この価格については、お客さんもいつまでも引きずっていないで、自分で、適当な価格か、原料の価格そのままか、検討してもらいたいものです。新しい、会社になったら、私は直接、話に行くつもりでいます。いい加減にしてほしいと、全て、私に、話が、集合していますと。
 一か所から話が巻かれて、一か所に集まる。行く先が他にないのに、直接話をしに来ればいいのに。
 家の畑に妻が植えた菜の花と孫のアンジェリーナマユミ

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2010年02月02日

斜めからインドネシアを眺めよう 505(enplaind)


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 何か引っかかっている日だと思ったら、結婚記念日でした。1970年大阪万博の年でしたから、40年です。何婚というのでしょうか。始めから共稼ぎで、妻が退職した三年前まで、続いた。結婚四年後には自分の会社を立ち上げました。その後、3年間は、収入全部を会社の設備を増やすことに使ってしまったので、妻の収入だけで、紐のような生活をしていた。知っている人たちからは笑いながらそう言われていました。損も、そう思っていた。
最近、10年以上は家族離散の状態になっているが、それぞれ、忙しいので、一緒に住んでいない方がお互いに良いのかもしれない。年に一回以上は全員がどこかに集合することがなんとなく習慣になっていて、その日が、大変楽しみである。まだ、別れてから一か月も過ぎていないが、今度はドイツに6,7月辺りに集合しようかなと計画を練り始めている。

 損がBlogやWeb siteのPass wardやIDやURLの一部にenplaextindやenplaondoを良く使っています。意味が分かる人はほとんどいないと思います。狭い範囲の専門的用語です。この道に携わっている人はわずかですが、その人たちでも、詳しく説明できる人はもっとわずかです。
 ENGNEEARING PLASTIC EXTRUSION MOLDING INDONESIAが元です。その一部を抜き取って省略して使っています。日本語に無理やり訳すと、臓インドネシアの高機能プラスチックの押出成形”になります。この仕事で、客先に技術的説明ができて、日本から輸入している押出製品ならなんでもできてしまう、引き受けることができる日本人、インドネシア人、他の外国人を入れても、インドネシアでは損一人です。一社、損が尊った装置と損が引き受けた客先の、損が立ち上げた金型で成形をしている会社がありますが、損が与えたものを使って、製品を尊っているだけですから、新しい仕事は取れないし、技術的説明や樹脂の選定などは全くできません。その上、品質管理の壺を知りませんから、不良品ができてしまった時の対策を迅速に取ることはできません。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。MM2100内の場所の地図を加えました。


 暗雲立ち込める前方、こういう風景がここかしこにある。

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2009年12月19日

斜めからインドネシアを眺めよう 460(プライド) 


数年しか使っていないので、見るからにまだ新しい。バイクや車の外装部品(プラスチックが主)の塗装、乾燥設備の大掛かりなものが売りに出ている。売れなければ、大部分は破壊して鉄屑価格で売ってしまう運命にある。もったいないこと、この上なし。だから、今、または、間もなく、その設備をしようと考えている会社や人がいれば、活かせる手を相談したいと思っています。
城砦のようなラックが建物全体(900平方メートル)、5階建て一杯大がかりなジャングルジムに鉄板の床が敷いてある、原料や製品の倉庫である。そのラックも鉄くずで売るにはもったいなさすぎる。
買ってもらうのは私の技術です。腕です。
 これとは別の話で、もうひとつ、懸念するのは、私が考え私が作った装置で、今までインドネシアではできなかったいくつもの製品をできるようにし、それを作る技術者を育てた。そして、日本から輸入していた会社が現地調達できるようにした。その装置を売るのにこちらから出す見積もりが妥当かどうか第三者の専門家に評価してもらうらしい。
 何気なく、事務的必要から、口にしたと思うが、どこの誰がこれらのことを私以上に分かっていて、価格が、幾らが妥当か断言できるのでしょうか。以前にも書いているが、その会社のその部門のトップの人が私に技術のことを聞いてくるくらいですから、其の会社には評価できる人はいない。日本のどこにいるのでしょうか。

 こちらから、提出する見積もりは、自分なりにかなり低価格で見積もりをだす。目的はやはり、手伝いですから、私が、投資して買った本体部分や付属部品、改造費など実質費用の約80%で出すつもりだ。そこに技術費用や指導料は入れない。客先紹介料も入れない。付属の金型や交換部品は無料、工具や検査器具も、無料。もし、それを、購入価格の明細を出せだの、償却がどうのこうのと云ってくるようだったら、客先紹介費や技術提供料の評価を求める。

このことに絡んで、許せない、見逃すことができないこだわりが私にはある。今後、私がインドネシアにいる間にやらなければ、自分自身納得出来ない、インドネシアから離れられないことがある。それは、来年3月から行動を始めようと思っている。
パパンダヤンの噴煙のように。

インドネシア各地方別の写真集です。
 http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0001.html
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2009年09月08日

斜めからインドネシアを眺めよう 358



この文章を書くにはインドネシアではかなり冒険的だと自覚している。
プアサも残り十日である。きっと、モハメッドさんが云いだして、賛同者が増えていったんのですから、イスラムにとって良いことが沢山あるのでしょうが、イスラムではない私には、良いところが見えない。なぜ、こういうシステムを唱えて皆にすすめたのか、そして多くの人が賛同したのか分かりません。こんなことを書くとイスラムの人は批判として逆に反発する人もいます。現在のイスラム教徒のほとんどは親がイスラム教徒です。物心がつく前からイスラムに慣れ親しんできて、それ以外の世界は知らないのですから、それ以外の世界があると知った時、他の世界の方が魅力的に感じる人もいるでしょう。モハメッドさんは、それも、予想し、他の世界に移らないようなシステムにしたし、結婚も他宗教の人とは禁止したのです。逆に言うと、それだけ、厳しくしないと、以外の魅力的な世界に離れて行ったしまうことを予想していたのです。かなり、考えたシステムだと思います。戦国時代の国家経営として、敵対心をあおり、国民を支配する方法としては、巧みで有効なシステムを編み出した結果生まれたのだったと思う。優秀な戦国武将であり、大名だったのでしょう。他の主な宗教とは明らかに神との仲介者?のポジションが違う。
インドネシアではイスラムとキリスト教徒のもめ事が絶えないひ、火種は全土にくすぶっている。教会を新しく建設する場合、誰でもどこにでも、どの程度の規模のものでも、自由にできるわけではないのです。では、どうなっているのでしょうか。宗教間で協定があるのでしょうか、それぞれの宗教が勝手に作って主張していて、他の宗教がそれに反して建てようとしたらぶち壊しの行動にでるのでしょうか。

人口に比例する各宗教の勢力を人工的に変えたのが、スハルト時代のジャワ島の人口密集地から各島々への移民奨励策でした。それは、イスラム教徒を移民させて、その勢力圏を拡大する結果になったのです。彼は、イスラムの政治干渉に反対し、過激派を排除したが、彼自身、イスラムです、巧みな方法で、イスラム支配を全土に広げたのです。

posted by 元気な振りの爺さん at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 実績 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする