2010年06月13日
(^_-)-☆できる、出来ない
斜めからインドネシアを眺めよう 636
“する“と”できる“の意味は、全く、次元がことなります。よく、人に言われることがあります。「これ、やってください」、と、言われた時、「やらない」「できない」、と、答えることも多い。その人は、「出来ると言ったじゃないの」と必ず言う。私にとっては、出来るが、しないことの方が多い。出来ることを全部やるはずがない。
出来ないことをやろうとするのが私です。既にできることをやっても意味がない。これも、性格です。既にあるものでも、私が作ったことがないものも沢山ある。そういうものを作るように頼まれたときに、やったことがなくても、やり方がまだ分からなくても、既に誰かが作ったものだから、出来ないはずがないと思い、出来ます、やります,と、言ってしまいます。そして、今まで、出来なくて、匙を投げてしまったものは一つもありません。インドネシアの仕事は、全部そういう仕事です。私の所へ来る仕事は、日本のどこかの会社で作っていてそれを輸入して部品として使っている会社がインドネシアの国内調達をするお手伝いをするのです。ですから、すべて、日本の誰かが作っている物です。しかし、その半分は、私が今まで作ったことがない製品です。日本製ですから、当然、世界中どこへ持って行っても通用する品質です。見れば特殊で見事なものです。それらの全てを出来ないと言わないで引受けるのです。それも、いかにも、作ったことがあるかのように、自信ありげに返事をするのです。客先は安心して私の任すことになります。インドネシアには私以外に押出を語れる日本人は居ないのですから、客先は当然、安堵します。価格も日本より30%以上は安くしなければなりません。
それでも、利益が上がるように工夫しなければなりません。
インドネシアでは、そういうことで、多くの会社、人が手掛けてきたが、出来なかった物を私に出来ますかと、持ってくることは全くありませんが、日本にいる時は会社員時代、太田化工時代の全てに間が、他の人、日本で他の会社で出来ない物を頼まれて、作ることだけやっていた。私に技術紹介の中の日本で作った製品は全て、日本で初というものばかりです。エンジング、グロメット、ポリカのペンダント用チューブ、66,6ナイロンのプリファイル、丸棒、いた、肉厚パイプ、POMチューブ、面取りスパイラルチューブ、押出長尺自在ブッシュなどなど、全てが、日本初です。永久帯電防止ポリカーボネートのブラインドスラットは我ながら傑作だったと思います。インドンネシアから一次日本に戻ったときに、5年以上前から、何社かが開発をしていた、各ブラインドメーカーも自分の会社から一番初めに売りだしたいと思っていた。そんな話を聞いて、早速、手がけた。経緯は、技術の方を見てください。大変、面白かった。
人がやらないことをやって、自己満足する、また、快感を得るという人生を続けていると、なかなか、それから、抜け出すことができない。一種の麻薬のようなものでしょうか、辞めらない。
今トライ中の製品についても、とにかく何とかしなければならない。間もなくサンプルを出せるはずである。
今日の通勤途中の事故。休日出勤などオーバータイムの時の食事はケイタリングの弁当です。これで、60円、ご飯(ナシ)の右が焼きそば(ミーゴレン)下にジャガイモ(クンタン)と魚(イカン)左が野菜(サユール)のスープとデザート(ちゅちムツッ)のメロンです。左下にザンバルが添えてある。ご飯とメロン以外は全部激辛、損れなのに、サンバルが付いている。結局、私はご飯とメロンを食べただけでした。
出来る やらない 違い
2010年02月21日
斜めからインドネシアを眺めよう 524(援助交際Bantu Mandiri)
色々な、方が訪ねてくる。私はPT.MAKUTAの人間だから、まだ、PT.NANBUの名刺を持っていないが、訪ねてくる人は当然南部の人間として話してくる。商社をはじめ原料メーカー、梱包関連、事務用品関連、ケータリング、レンタルバス、旅行社などなどである。勿論、従業員として雇ってほしいと来る人もある。また、特殊なのは、インドネシアの射出成型をしている会社や金型製作会社が訪ねてくる。本当に、気が早い、どこで、どう聞きつけてきたのか、ローカルの情報伝搬速度はおどろくほど速い。
日系の、金型屋や射出屋は連絡してこない。敵か味方か読めないからでしょうか。PT.NANBUはインドネシアの日系企業の金型屋より、大型が出来る体制を整えようとしている。
それらとは、別に、自立して会社を興したいのでと、資金援助を申し込んでくる、個人も団体もある。会社の姿にまだなっていないのに、どこから、何を聞きつけてやってきたのでしょうか。PT.NANBUにではなく、私を頼りにしてくるようですPT,MAKUTAが、そうだったように、実現可能な計画書と自己資金の内容が分かるような書類をもって、また、相談に来なさいと言って返す。
自立をインドネシア語ではマンディリ(Mandiri)と言います。独立はムルデカです。インドネシアは、ムルデカは65年前にしていますが、マンディリはまだしていません。其のお手伝いですい。Bantuが手伝いの意味です。
ジャバベカのルマハバンに工場を作った若者がいたので、其の場所を見に行った。PVCチューブの製造を行なおうとしているが、場所的に厳しいことと、其の場所では狭すぎて、成長に余地が少ないようだ。手伝いたいが、このままでは、資金を有効に使ってもらえる可能性が少ない。しばらく、様子を見る必要がある。それにしても、皆さん、たくましくなってきたと感心すると、同時に、インドネシア人同士の連絡網というか、情報の交換は早いし、広い。日本人の私が、それらの情報を全部つかむのは難しいが、あまり、入りこまない方が良いようだ、所詮、彼らの情報の中にはインドネシア人でなければ対応できないこと多い。
ある、ハイド氏の会社の従業員は,だれもが、機会をうかがっているし、実際に、辞めて仕事をはじめて、ハイド氏の会社が受けていた仕事をやってしまっている会社がブカシにある。ここからは、技術的な応援をいつも頼まれている。スポンサーは他にいるようだ。
カラワンゴルフの名物ホール、ロータスの8番、の今日の様子。広い池越え打ちおろし、165ヤード、グリーンと池の間がバンカー、直接オンすると、頃だって奥へ出てしまう。
見返り美人です。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page123.html/
援助した会社、閉じる会社。1995年からインドネシアで関わっている。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.html
インドネシアの主な島には全部行っています。旅行記はこちらからです。それでも、行きつくしてしまったと感じることはない。
2010年02月14日
斜めからインドネシアを眺めよう 517(パニック障害から脱出成功)
胃癌の切除の麻酔から目が覚めた時以来のまだ、生きていたという感動でした。しかし、自分の苦しみのほかに、邪魔な余計な苦しみが在っただけに、試練は長かったし、精神的に理不尽を強く感じていた。生き返ったという感覚は数段大きかった。
まず、何とか早く、日本で、体を治し、次にやるべきこと、やらなければならないことができる体に戻さなければならないことを直ぐに意識した。 再起を課して、必ず治すと誓った。しかし、現実は厳しさが続いた。もうだめだと思ったことが何度あった。
早速、いくつかの、近所の開業医を回ったが、何の改善もなく、やはり、息苦しくなったり、気絶しそうになったり、ヒドイ、症状は続いた。約、一か月の間に、三回、タクシーで総合病院の救急外来へ夜中に駆け込んだ、しかし、いずれも、原因付いて明快に答えを出してもらえなかった。何より厳しかったのは、頻繁に心臓の鼓動が休んでしまうことでした。必ず、また、動きだすから生きているわけですが、其の都度、もうだめだと思わされた。約、一か月経過後、過呼吸になって、死ぬかと思うくらいに、体が冷たくなり、ガタガタ震えが来て、気が遠くなることを感じた。小康状態で、救急外来に駆け込んだが、其のベッドで待っているとき、また、ヒドイ症状になって、大声で、苦しみ、不安を叫んでしまった。他の優先患者の方にいっている看護婦がすっ飛んできて、私の顔の上に紙袋を被せた。「すぐ、良くなるから、そのまま、呼吸を出来るだけしないように」と言い残して、直ぐ、いなくなってしまった。
その通り、二三分で、震えも冷えも、嘘のように無くなってしまった。ほっとしたところへ、医者がやってきた、症状と私がとった行動を説明した。そして、今は、症状が消えてしまっていることも話した。医者曰く、「今日はもう帰っていただいて、明日、総合診療科で受診してください」とアドバイスを受けた。
この病院の精神内科、外科、耳鼻咽喉科、心臓外科には相談に行っていたが、総合診療科というのがあることを知らなかったし。それらの科の医者から勧められもしなかった。
うつ病など、精神的な原因がはっきり数字で出てこない病気の相談に乗る科だった。簡単にいえば精神病の診療に当たるところでした。神経の誤動作は何を検査しても分からない、症状だけから病名を割り出し、治療に当たるのです。前にも書きましたが、ここで、パニック障害と宣言され、薬を飲んで、其の時から心臓が止まることは全くなくなった。それ以来、何年か後の今も、止まることはない。それだけで、私にとっては十分でした。その他の症状はまだ続いていたが、もうそれで、行動できる、出来ないは私の気持ち次第になったと感じた。発病から約三ヵ月間の苦闘でした。
死んだ気になったのだから、しばらくの休みののち何でもできると改めて思った。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの開店案内はこちらから。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page222.html
下手ノとうどウが立ち行かなくして、閉じる方向に向けてしまった会社です。
今日の話、久しぶりにジャカルタ、スディルマン、スナヤンのラトプラザへいってデスクトップ二台、ラップトップ二台、スキャン付きのプリンター一台、プリンター、FAX、スキャン機一台を購入した。全部で、22万円くらいだった。実に安い。数年前に比べれば三分の一である。
インドネシアでは一級のIT機器を扱っているモールの一つです。ジャカルタの中心地にあるので、外国人の客が多い。価格も、グロドックやマンガドゥアなどと比較しても高くはない。インドネシアに不慣れな日本人にはここを紹介している。
ラトプラザの内部のほんの一部と、正面出入り口の様子、雨だったので、車まで送るアルバイトをしている少年がいた。ここは地下駐車場が広いので、この仕事はあまりもうからないと思うが、地上の駐車場が広いショッピングモールでは良い仕事になるので、大勢の子どもがこの仕事をしている。雨季は彼らにとって小遣い稼ぎのキャンスである。
2009年12月04日
斜めからインドネシアを眺めよう 445
ところで、一ライン残した押出成形装置、日本の本社に送ることになっていて、現在、業者が、その輸出パッキングをしたようです。
これが、不思議、私の技術が100%の装置である、頼りない若者たちでしたが、一応、4人に教えた。ですから、この装置の詳細については少なくとも彼らの中の何人かは、知り尽くしているはずである。図面も1996年から、渡してある。
それを今になって日本の本社工場へ移動して使おうということになっているのでしょうか。お金が余っている会社ですから、何故、日本で新品を調達しないのでしょうか。また、日本でも中古装置は捨てるほど売っているはずである、それを、改造して使えば、作業員の勉強にもなると思うのですが、それもしないで、高い運賃を掛けて、インドネシアから、十数年前の装置を移動するのでしょうか。誰が、欲しがったのでしょうか。教えた人間の一人が見に来たと聞いている。その人も、インドネシア時代に原料費の10倍の価格を提出したつもりが小数点の位置を間違えて、原料価格で売り続けて、儲かっていると、思っていた人の一人でした。
さんざんいじめて、邪魔者扱いにした、人間から得た装置を、それも、中古を日本まで送るというのは、よっぽど、その装置を当てにしている、技術を頼りにしている証拠である。見栄も、プライドもない状態で、その装置に頼ろうとしているのです。面白いですね。
今の私はその装置を新しく作りません。インドネシアでインドネシア人と一緒に作っている装置は、改良品で、当然、十数年前より進歩していますし、より、いろいろな樹脂に対応できるようになっています。
私をおだててうまく使っていれば、もっと簡単に早く、いろいろな新製品の開発ができたはずです。
お寺とモスクが仲良く?並んでいる。どちらが後から建てたのでしょうか。
2009年08月18日
斜めからインドネシアを眺めよう 337
“Merdeka”!! “Merdeka”!! “Merdeka”!!
独立記念日でした。64回目です。インドネシア人達はインドネシアという国の名前を口に出したり、入った歌を歌ったりすり機会が多いと思う。日本人がニホンという機会が少ないと思うし、日本という国名が歌詞に入っている歌は非常に少ない、というより、今、そういう歌を思いつかない。60数年前の軍国日本の時はどうだったのでしょうか。
インドネシア人は国旗を掲げる機会が多い。日本と比べてである。多分、どの家でも大小何枚かの国旗を持っていると思う。日本の家庭に今、国旗がある家は少ないと思う。あっても、どこにしまってあるか分からない家が多いと思う。何年も掲げていないのです。
話は飛ぶが、日本の旗に金の玉が付けられているのはなぜでしょうか。子供のころは母親に金の玉はどこにしまってあるの?と、聞きにくかったことを記憶している。なぜ、誰が付け始めたのでしょうか。今、買う人はいるのでしょうか。デパートではなにコーナーに日章旗を置いてあるのでしょうか。
インドネシアの旗に金玉は着かない。それと、日本の国旗のようには、縦横の長さを気にしない。上が赤、下が白の半々なので、比率は決まっているでしょうが、短いと変だと思うが、長くする分には違和感がない。だから、幟のような国旗が一般的に掲げられているし、三角の旗も多い。とにかく、インドネシアは一つだ、インドネシア語を大切にしよう。インドネシアのそれぞれの宗教を尊重しよう、インドネシア産の製品を買おう。インドネシアは自立しよう。という具合に、インドネシアの国内に関する啓蒙のキャンペーンが多い。
日本の終戦記念日の何日か前のような、特集戦争番組はない。独立戦争の当時の記録や映像が殆ど無いのです。残っているのは独立宣言の映像だけしかないといってもいいくらいで、他に、今使われる映像もメモなどもない。日本人は手紙や日記やメモの大多数の人々が記録していたし、残そうともした、映像を器具を持っている人は映像を残した。それだけ、インドネシア人には、書き残す、書いて人に伝えるという考えが、頭にないのでしょう。それは今も引き継がれている。話を書き留めておくという考えがない。其のためのノートを自分で買うことはない。小学校で休みの日記帳の宿題はない。