2018年03月20日

(^_-)-☆出会い

 3349 私から求めた環境や出会いではなく、また、そこでなければならないと他人に押し付けられたわけでもなく、何となく入り込んだり、何となく、会ってしまった環境や人から将来の方向がほぼ確定された。運命というか、付いていたというか、そういうものだと思う。それらを参考にしよう、見習おう、その中で生きていこうと思う。

大学は、公立、浪人ダメという条件だった。一期校、二期校があって、一期校は、無理だと思いつつ受けたが、発表を待つまでもなく、出来が悪かった。二期校は、滑り止め的で、人口宝石で名の知られた梨大応用化学、小学校のころ、山の子海の子交換会で行ったことがったのも理由の一つだった。入ってよかった。妻と知り合ったのもここだったし、三年後半から赤尾先生にお世話になったこと、全く、偶然の世界だ。今、インドネシアで、自分がやりたいことでできているのは、これらの出会いのおかげだと思っている。二十歳のころだ。武田神社で町内の方々から、招待されて、成人のお祓いをしてもらった頃の話だ。間もなく新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されようとしていた。カラーテレビの試験放送も始まっていた。こんな環境の中で、恵まれた出会いでした。赤尾先生には卒業してからも仲人を引き受けていただいた。プラスチック押出成形と出会った就職先も先生のお兄さんが役員をされていた極東貿易のお世話が大きかった。今はどうなっているのでしょうか、東プラ精工は、東洋レーヨンと極東貿易と近くの臼井国際の資本が入ってた。エンプラ押出の日本でのパイオニア的存在だった。

そして、約二年後に、仕事中に現場から応接に呼び出されて、ご対面となったのが、当時、北川ゴム工業の北川社長だった。アメリカの見本市で見つけてサンプルを持ち帰ったのが、射出で作られる結束バンドと自在ブッシュ、そして、押出で作られるエッジングとグロメット。射出製品は、既に、多くの会社がやっていたので、その話ではなく押出製品の方を見せて、太田君、これできるか?問われた。ちょっとだけ、考えて、できます、やらせてくださいと言ってしまった。
http://otaenplaext.net/newpage305.html
今の年になれば、私の履歴書ではないが、書いておきたいことが沢山あるでしょう。私も、そんな年だから。

北川弘二社長、後に会長には、それ以来、付かず離れずのお付き合いをさせていただいた。独立してからも気にかけていただき、仕事を出していただいた。私が社長を辞めて海外へ行きたいといっていた時も気にかけていただき、インドネシアへ進出の時に、どうかね、と、声を掛けていただいた。その後も、機会あるごとに、将来について話をさせていただいた。インドネシアで厳しい状況に置かれた時も、気にかけていただいていたし、帰国したときにいは、挨拶によく出かけていた。跡継ぎに関しては、相談を受けるようになっていた。私は、副社長がやりたいようにやれる環境を自然に整えたらいいと思っていた。

赤尾先生、北川社長それぞれにとって、私は、ワンノブゼムに過ぎないと思う。私以外の多くの人に影響を与えているはずだ。
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最近、妙に多くなった注文。S-PVCチューブだ。サイズもいろいろ、色もいろいろ、この種のチューブは技術的には、簡単に作れるから、ローカル企業でできる(内もローカル)それなのに、どうして、うちへの注文が増えるのかわからない。客先が忙しくなっているのでしょぷ。コリアン系である。
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Durian Ambruk ファーマーズマーケットへ買い物行った。入り口でドリアンを売っていた。我慢できずに買ってしまった。これで、15万Rp(1200円くらい)アンブルックという種類は、西部ジャワと中部ジャワにある。小ぶりで丸く整った形をしている。インドネシアの大部分の種類は種が大きく、実の80%くらいが種で、大体、がっかりする。この種は、その中でも種がそれほど大ききないといわれている。それでも、食べてみたら、70%ほどは種だった。私が普通買うのは、モントンという種類で、これなら、種より食べる部分の方が多い。タイからの輸入がほとんどだ。モントンも売っていたが、試しにこちらを買ってみた。
この方たちと会っていなければ、こんなところでドリアンをよだれを垂らしながら買ったりしていない。
偶然 運命 出会
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2018年03月18日

(^_-)-☆高校一年

 3347 選抜の組み合わせが決まりましたね。駒大苫小牧、強豪でしょうね。せめて、一回くらいは勝ってほしいですね。早く負けてしまうと、寄付金が余ってしまうでしょ。

自分から求めたわけではない環境になってしまい、それが、ターニングポイントにる場合がある。 当たり前のように、静高に入った。勉強も運動も両立させるぞと。
当時、今もそうかもしれない。中学運動部で、優秀な奴は、特別枠で入ることができた。だからといって、勉強でも、中の上以上くらいが一応の条件にはなっていたと思う。それはいいのだが、私の一年の時のクラスのメンバーを見てびっくりだった。40人中、野球6人、柔道2人、バスケット2人、硬式テニス1人、剣道1人、重量挙げ1人、そして卓球1人私、私以外のメンバーは、野球部の一人を除いて、明らかに運動能力で入ってきた連中だった。そして、彼らは、県代表クラスになるだろう実績があった。事実、彼らの何人かは、後に、インターハイで優勝している。一つのクラスに纏められたのだと思う。で、何で自分がこのクラスに入れられたのだろうか。卓球はやっていたが、とてもじゃないが、市の代表の一部くらいになれるかの実績しかない私が、運動で引っ張られたわけではない。学力一本で入ったはずなのに、運動部連中が集まるクラスにいれられてしまった。多分、運動部に属さない他の20何人は、私と同じように思ったと思う。

 昨年末、中学3年の同級会をやった。何度も書くかも知れないが、その中に、高校一年の時、同じクラスになった野球部員がいた。彼は、中学野球県大会で、準優勝メンバーで主将、首位打者にもなったやつだ。勉強もクラスで二三番に入る実力だった。そして、高2の時に、甲子園で準優勝メンバー、セカンドだった。決勝で法政二高の柴田から二本のヒットを打っている。私自慢の同級生だ。そいつが、この前の同級会で、中学の時の話はさておいて、高一の時の話をした。“太田、お前な、俺にな、こんなクラスに入れられたばかりに、馬鹿になっちゃよ、ボールの紐を縫ったり、グラブの手入れをしたり、授業中だぞ、勉強の雰囲気なんて全くない、そんなことばかり言っていたよな”思ってはいたが、実際、彼には、ぼやいたのかな、あまり、覚えていないくらい、自然に言っていたのかもしれない。それが、彼にとっては、引っかかってたのでしょう。笑い話だ。

 中三のクラスの中に、サードの彼のほかに、ピッチャーとファーストもいて、中学野球の決勝戦で負けてしまった責任はお前だ、いや、俺じゃない,あいつだなどと言い合っていたのも、面白った。

 周りに影響されるのも自己責任かもしれないが、高一の時、あのクラス以外だったら、他の大学に進んでいたと思う。別の人生だったと思う。クラス分け担当する人物は、そんなことを思ってほしいね。その人の人生の方向を決めるかもしれない。選抜組み合わせのニュースを見たので、ふと思った。
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ゴルフの後、会社によって、一寸仕事、終わって、出口に向かう。小さな工場の並び、プレス機が、とんとんと,稼働していた。外に道に出る、手前の水溜りは、雨季中、消えない。このクラスでなかったら、この写真もなかった。
クラス 運動部 転換期
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2017年12月17日

(^_-)-☆同窓会ミニ

 3256 沼津で、フジプラ精工で、知り合った三人と太田化工の社長を加えて四人で食事会。一人は、会計事務所を経営、初めて会った時には、フジプラ精工で経理の手伝いをしていた。私は、腰掛的夜勤を専門の現場手伝をしていたので、ほとんど、合うことはなかったが、休日の何かの催しの時に、お互いに、同じ会社にいることを知った。私が会社を作ったときから、帳簿の確認をしてもらった。彼は、当時、会計事務所に就職し、税理士、会計士の資格を取る勉強をしていた。勉強だからと言って、帳簿の手直しや申告をしてくれていた。実際に申告をするときには、彼の勤め先の会計事務所で確認のサインをしてくれていた。手数用は受け取らなかった。それから、ずっと、太田化工の経理顧問として、自分の事務所を開いてからも、一番目の客?になっていた。彼の確認書付きの申告だったから、税務署のチェックは、一度も入ったことがなかった。だから、私は、相当、利益を上げていたが,一度も、税務署の人と会うことはなった。話をすることもなかった。
今でも、沼津では、知る人ぞ知る、会計事務所の経営者だ。
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もう一人は、私が会社を作って、直ぐに、手伝いで一緒にやってくれた人、私が静岡に映ったのちは、沼津工場長、それから、静岡の工場に後継者候補の社員を入社させたと同時に、沼津工場は、彼に任せることにし、装置や客先を彼に渡して、独立してもらった。セピックという名前の会社の社長になった。今は、それから、35年、後継者に恵まれなかったために、太田化工にすべてを委託することにして、商社的な仕事だけにしている。
二人が、私が独立してからの、最重要の補助者だった。日本にいるときには、多いにお世話になった。
そして、太田化工の社長の桑原君、彼も、私が抜けてから、この二人に、多いに助けてもらっていた。そして今、後継者のことを考え、息子さんをインドネシアで修業させたいという話も彼らに相談している。

私より先輩の方々、お世話になった方は大勢いるが、私より年下の人で、世話になっている人たちは、あまりいないが、彼らたちには、世話になった。
また、こういく機会を持とうよ、もっと,メンバーを呼んで。ということで、分かれた。

集合場所が清水町の徳倉だったので、その前に、途中、柿田の東レプラスチック精工(当時は、東洋プラスチック精工)の前へ行ってみた。私が押出成形に出会って、技術を蓄積というか、この仕事がどんなものか、確認した場所でした。ここから,日本で初めてという仕事を多く、経験、挑戦をした。現在もやっている仕事への考え方、基礎がここで出来上がった。その場にした。
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正門から見て、左から、入社当時にあった第一工場、射出、押出、延伸ベルト基材製造工場、仕上げ、金型メンテナンスがこの中にあった。右へ、倉庫でした。丸棒や板の何十種類の在庫、原料の在庫が置いてあった。入社三年後に、その右の工場ができた。押出は、ここに移った。私は、この工場の責任者として、押出成形、各種ペレット製造部門を見ていた。その右は、検査、各種テストをする場所だった。その右、一段下がったところの寮に、何年間か住んでいた。今は、建て替えられていた。私が組合長時代に立ててもらった社宅はなくなって駐車場になっていた。

今日も、この中のどこかで稼働しているようだ。拡大して残っているのがうれしい。皆さんに感謝。皆さんに感謝。
懐かし 基礎 考え方
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2017年10月10日

(^_-)-☆大学同級会

 3188 来ている、甲府である。10時に出発、ノンビリぶらぶら、決まりの興津から北へ向かう。学生時代、甲府から自転車で静岡まで帰った時、通った道を逆に甲府に向かった。今回は迷うことなく、ひたすら、甲府の看板通りに進んだ。駅を目指し、左に舞鶴城址と県庁の間を通って、中央本線を越えた。会場には、15時ころ入ればいいので、思い出の地を巡りだした。
先ず、小学校の時に、山の子、海の子交換宿泊で、武田神社の左隣にある相川小学校を横目で見ながら、宿泊した塚原部落?まで行ってみた。泊まって家はどこか覚えていなかったが、バス停は見つけた。大学時代にも、何度か、お世話になって家にはいったことがあった。
少し下って、護国神社、そして、なんといっても、竜が池だ。武田神社の右隣、石積みで囲まれていて、中を見ることができないが、学生時代、冬になれば結氷する感慨用水池だ。学校へ行く前に、毎日、アイススケートに通った池だ。氷が割れてハマった同級生もいた。
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愛宕山上った。護国神社の方からだ、学生時代、卓球の練習の前に、走って上った道だ、昔は舗装して無かったが、今は、綺麗に舗装せれていた。大学を見下ろしながらだった。頂上ちょっと下にこども公園?になっていて、車の制限時間が17時までだった。16時半に到着し、急いで、車から降りて、ちょっと南下に走って甲府の市街地を上から眺めた。富士山の頭が、御坂連山の向こうに、昔と同じように見ることができた。
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降りてきて、大学の構内の昔懐かしい応用化学の建物を眺め、そこから、一段上がった、昔、学生課があった辺り、山梨高専時代からの建物、当時がT−0教室だったところの階段、この階段は、皆さんでよく記念写真を揃って取った記憶があるし、その上にがって左側に藤棚がある。当時、学芸学部の女性もこの下によく来ていた。私の妻とも、この藤棚の下で立ち話をよくしていた。“薄紫の藤棚の下で歌ったアベマリア“という歌が流行っていた。

18時前には、芙蓉というホテルに入った。私が最後のようだった、皆さん元気、ただ、自己紹介が、ちょっとね、話がくどかったり、つじつまが合わなかったり、話の焦点が合っていなかったり、聞く方も、あまり、理解していないようだったり、歳を感じさせられた。ま、とにかく、にぎやか、皆さんは、私を会うのが、久しぶりだったこともあり、私からに話はよく聞いてくれたと思うし、興味があったいうだった。中に、次はインドネシアでやろうよという話もしていた。

若くして亡くなったK君以外に二人の方が故人になっていた。

ジャカルタースラバヤ間の中高速鉄道への改良工事が来年から始まるようだ。600km以上あるジャカルタ^スラバヤを今は11時間、事故も多い。それを5時間、無事故路線にするという。日系企業で、2021〜22年に再開業、中国の高速鉄道、ジャカルタ、バンドゥンは、霞んでしまうでしょう。インドネシア人は、日系企業に大いに、期待している。
同級会 思い出 元気
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2016年10月22日

(^_-)-☆楽しい体験

 2836 中学から卓球を始めた。高校も卓球部に入った。しかし、中学でも高校でも同じ学年の仲間では、実力は二番手だった。ほどほどうまく成るのだが、一番にはなれなかった。学校自体は、在学中、二番手三番手としてでた、 団体戦で中学の時は市で二度優勝、高校の時には、県中部で準優勝と三位だった。私は、中途半端に、ほどほどだったと思う。それでも、文武両道を何とかやっていたという意識はあった。
静高の時は、滅茶苦茶楽しかった。(大学の時はもっと楽しかった)顧問の先生は一応いたが、いなくてもよかったし、いない方が、自分たちで運営するのに、いちいち、届けや、許可を取らなくていい。だから、顧問は、私たちに全面任せ、遠征の時だけ、学校から離れられると、喜んでついてきた。

キャプテンは実力が一番の者、二番手が、なぜか、マネージャーになることになっていた。私は一学年先輩のマネージャーの仕事をみて、大変だが、経験しておきたいと思った。いろいろの根回し、準備、キャプテンより、よっぽど、いい経験になると思った。二年の秋から、狙い通りマネージャーになった。卓球の方は、ダブルスに一番手と組んだ、団体戦は、シングル2、ダブルス、2シングルになっていて、三勝すれば勝ち、私は、ダブルスとシングルの三番目に決まっていた。大体、私で決めてしまおうという位置だった。一二年の時は5番目のシングルのレギュラーだった。これも、いい役まわりだと思っていた。私が勝って、勝利に貢献したこともあった。

さて、マネージャーの仕事、予算の獲得、先輩や後援会、その他、公共や商店街などから、多くのクラブ応援の資金が寄付されている。それの配分獲得交渉だ。自分たちの運営予算を立てて、それ以上の配分を要求するのです。ユニフーム、ボールがいくらで、いくついるから、合計いくら、卓球台を新たに買いたい、修理もしたい、遠征にいくらなどなどおもしろい。余らせることが出来れば、みんなで、食事会などができるから、掛かりそうな金額より、水増しをして出す。実際、この時から、領収書も金額を多く書いてもらうことをやっていた。有る運動具やと暗黙の提携をしていて、ボールや各種道具を買う時には、実際支払った金額に20%ほど、多い金額を書いてもらうとか、ネットやラバーを余分にもらうなどをしていた。高校の時から、静高生は、将来、官公庁で仕事のやり方を体験学習していたのです、こんなこと、やっていいの?と、思いながら。今でも、当然、やっていると思う。野球部なんかは、甲子園に行けが、多額の寄付金が集まる、そして、一回戦で負けてしまえば、多額が余ってしまう。それを、どうするのでしょうか、後援会費用の残高としておくのでしょうが、皆で適当に分けることにもなるでしょう。それを、他の部でも狙うには当然でしょう。

練習場所の確保や他校との交流。体育館の四分の一が私たち卓球部に与えられた場所でした。三面を置けた。剣道部が隣の四分の一、半分はバスケットでした。バスケットは、インターハイ常連で優勝をしているし、いつも、上位にあったチーム、きつい練習をしていて、気の毒に思ってみていた。と、いうことで、彼ら優先だから、何かと、彼らが全体を使うことがあった。その時は、前もって、知らされていたので、私たちは、他の場所を借りることになる。多くの場合は、近所の女学校に申し込む、今はどうか知らないが、当時は、城北、双葉、英和、精華、常葉がほぼ4km圏内にあった。それらの学校の顧問の先生に電話して、許可を取る、それは、皆さん、快く?OKをしてくれる。試合などで、顔見知りだし、静高だから、歓迎、そして、何より、迎えてくれる生徒は大喜び、男子禁制など問題なし。私立の学校が多いから、静大生がコーチをしている学校もあり、その静大生には私たちの先輩もいた。そのつてで、体育館が使える日でも、のこのこ、出かけて行ったこともあった。

合宿や先輩たちとの交流、新聞発行。夏休み中、年に一度の部内の選手権があって、先輩を招待する。合宿中に行われることが多かった。社会人、大学生などに参加してもらう、先輩名簿に従って手紙を出した。年に一二回部活動報告ミニ新聞でも、その予定は知らせる。55年前のことだが、今でも、私の処にも送られてくる、寄付金の振り込み用紙も丁寧に同封されている。合宿中のコーチを自主的にやって頂く、卒業して間もない先輩は、夜、泊まり込みで、卒業した後の体験談をしてくれた。私も大学生中は、コーチ役もしたし、泊まり込みもした。スイカなど差し入れもした。当時はお米持参だったので、お米も持って行ってやった。先輩の差し入れは当たり前のことだった。

卓球台で練習する前に体操は勿論するが、学校の外へランニングしに行く、学校一周、1kmは十分あった、4周が普通だった。それでは、面白くないから、浅間さんにも行ったし、百段何往復は普通、ずっと登って行って、地獄谷と言われていた急坂を転げ下り、臨済寺に至って、当時の静大の脇を通って帰ってくるコースもよくいった。また、駿府城の内堀一周も何回も行った。時には、外堀一周もやった。これは、目的の一つに女学校巡りのようなものでもあった。一寸、遠回りして、わざわざ、何か所かの女学校の前を通るのです。学校の前に差し掛かると、なぜか、皆、元気になるし、掛け声も出る。校舎の窓から、多くの学生が手を振ってくれる。それに、手を振ってこたえる。なんてこともやっていた。城北へは方向が違ったし、距離もあったが、そちらにも出かけていたし、一緒に練習する機会も多くあった。

それらの段取りを任せられるのがマネージャーでした。良き、思い出になっている。全然、苦にならなかったし、この役、他の人に取れなくてよかったと思った。既に、無意識のうちに、そのころ、色々の根回しのようなことをやってみていたのでした。
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新工場の現状、最初の完成予定から一か月過ぎている。二回の完成予定日も4っ日、過ぎている。この様子では、まだ、二週間以上かかりそうだ。それに、おそらく、出来たと言われた時に、あそこがダメ、ここがダメと、クレームを沢山つけることになりそうだ。
社会勉強 役志願 楽しい
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2016年07月29日

(^_-)-☆子供のころ

 2751 安西橋の手前と安西橋の向こう側、安西五丁目と山崎だ。小学校のころ、この道は、真ん中の一車線の広さしかなく、舗装はしてあったと想うが、剥げていた部分の方が多く、ちょっと風が吹けば砂煙が上がっていた。車はほとんど走っていなかったので、アスファルトが残っている場所に座り込んで、眺めの釘と石で、埋まっている釘、入りがね、ねじ等を掘り出し、貯めて、屑鉄屋に持ち込んで小遣い稼ぎをしていた。アルミや銅(赤)や真鍮は高く売れた。リヤカーや大八車が行き交っていて、自転車の後ろにリヤカーを繋げて引っ張っている姿もあった。この通りを塞ぐようにしてラジオ体操をしたし、缶蹴り、水雷駆逐、Sチンなどの遊びをしていた。
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安倍川の土手まで500mくらいのところに住んでいて、安倍川には日常的に遊びに行っていて、泳ぎも川に放りこもれて覚えたし、魚釣りや石に下の魚を石をぶつけて取ったり、ぬかビンを仕掛けて取ったりして遊んでいた。時には、安西橋を渡って、大門川、藁科川の方まで遠征し、木枯らしの森付近で泳いだり魚を追いかけたり、ぼったいで魚を捕まえたり、鳥餅でチャッチャ(子供ウグイス)、目白などを捕まえたりしていた。船山にもよく行っていた。蝉やクワガタ、カブトムシは当たり前、アユなの魚やイナゴやドジョウ、蜂の幼虫は食用だった。

その内、砂や砂利の採掘が盛んになり、河原のあちらこちらに、採掘跡の広い深い穴(浅いと思って歩いていると突然深くなってしまっていた)が出来てしまっていて、その穴に落ちて亡くなった子がいて、なんとなく、安倍川で泳ぐことが禁止になってしまったように覚えている。

今の風景、状況からは、想像できないほど、川向う(山崎新田?羽鳥?)は、ど田舎だった。安西橋を渡って向こう側に行くのは冒険だった。大門川で蛍の大群に遭遇した時には、大感激したことを覚えている。安西橋の両岸の下には、昔はコジキと言われていた人たちが住んでいた。そのうちの一人、“ごんじい“に助けられた思い出は忘れられない。
 
 こんなことが原点だったから、インドネシアでの生活は全く苦にならないどころか、快適そのものだ。
故郷 原点 安倍川
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2016年03月24日

(^_-)-☆ルーツ

 2624 父親が亡くなったとき、もう、二十年以上前になる、私がお墓を作った。富士川町に住む、いとこの内、本家の石材店以外は全員、本家のお墓(江戸時代からの墓標がある)の周りに、自分たちの親が亡くなった時にお墓を作った。だから、このお墓の周りは、太田家と彫られたお墓が沢山ある。本家が石材屋だから、静岡に引っ越しても夏休みには、毎年、富士川の橋のたもとの本家に遊びに来ていた。富士の方から国道一号線の橋を渡ると、国道は、その渡りきったところで急カーブを描いて左折している。左折しないで、認知症老人のごとく、真っ直ぐ行ってしまうと、太田石材店に突っ込む、そんなところにある。今でも、いとこがその石材店をやっている。信号がまだない時代、よく、太田石材店にトラックが突っ込んだという話は、聞いていた。
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 で、お墓を作るのは、簡単で、安い、お寺も先祖代々、子供のころから、そのお寺の周りの山で遊んでいたし、お寺の坊さんとも、仲が良かった。今は,年に一回か二回しか行かないし、父母だけしか入っていないお墓に、次に入るのは私である。準備は万端である。この地より出でて、この地に戻るはずである。
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 この鉄のパイプはなにか分かりますよね。日本軽金属蒲原工場の第二発電所の取水パイプです。私が生まれた年に利用され始めたという。私の父親は重電の専門家で、その仕事に携わっていた。ボーキサイトから最後に電気分解、アルミニウムの抽出に携わっていたのでした。富士川の芝川辺りの第一発電所からの放水を使っている。二三歳のころ、会社の運動会に行ったことを覚えている。発電所についても、分からないながらも説明をされていた。四歳の時に、どういう分けか、静岡に引っ越した。なぜ、日軽金を止めて、静岡で荒物屋を始めたのか、説明を聞いていない。サラリーマンには向いていないと思うが、何故か、分からない。商人にも、向いていないと思うのだが。
 孫にこんな話をし始めている自分に気付く。
生い立ち ルーツ 帰郷本能
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2016年03月20日

(^_-)-☆遠い記憶

 2620 昨日書いたプロ野球選手の円陣の話、それに関して、世界の王会長の談話を読んだ。さすが、王氏、いいことをおっしゃる。スポーツマンだね。

 で、何も関係ないが、思い出をちょっと書く、甲子園春の選抜で優勝した王選手、ピッチャーで四番だった。中学の時、家の側の静商(セイショウ)の野球選手がよく、田所選手や興津選手などがいて、家の前までランニングをしてきた関係で、小学校の時からファンだった。高校は静商へ行って野球をやりたいと思っていた。当時、静高(静中から城内高校)と静商が甲子園へ殆ど交代で出ていたし、定期船は“静岡の早慶戦”と言われていて、人気があって、外野まで満員だった。多分、私が中学の二年の時だったと思う。招待試合として早実が来て、静高と静商とダブルヘッダーの試合が草薙球場であった。私は父親と一緒に見に行った。両校とも負けてしまったと思う、王選手さすが甲子園優勝投手だと思った。

しかし、そのときは野球をあきらめて、卓球をやっていた。そして、中学からは静高の方が近かったし、静高の卓球部は、全国大会にもよく出ていたので、二年の時には、まだ、駿府城内の城内高校へ教えてもらいに通ったし、三年の夏までは、新しい、現在の場所の静高の体育館へ練習に行っていた。そして、静高に入っても、当たり前のように、卓球部に入った。野球は、二年の時、私の中学の同級生をはじめクラスの仲間が甲子園夏の大会で準優勝をした。彼らと一緒に野球などできるはずがない。彼らのスピードといい、飛距離といい、とてもじゃないが、野球などやらなくてよかったと思った。同じ体育館で練習をしていたバスケットもインターハイで優勝していた。私たち卓球部と言えば、静岡の中部大会で準優勝止まりだった。
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静岡地方気象台の観測用ソメイヨシノはまだかもしれないが、ここの染井吉野は、五つの花どころか、一分咲きのようだ。
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 トンネル内の火災があったばかり、この先1kmほどにトンネルがある。前方工事渋滞とかで、左車線一車線になろうとしている。ちょっと、緊張する。
王選手 記憶 円陣 
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2015年08月11日

(^_-)-☆二回目のプール

 2398 思い出の夏の一コマ。そのつもりで水泳パンツを持っていったので、孫たちと一緒にプールに入った。一周、200mほどある水が流れるプール。初めてではないので、知ってはいるが、浅い。1mほどしかない。顔を上げたままの平泳ぎは足がついてしまう。顔をつけながら泳ぐしかないし、仰向けになって泳げば、周りが見えないから、他人にぶっつかってしまうし、クロールなどやれば、それこそ、一かきで、前の人にぶっつかる。要するに、泳げない。歩くしかない。泳ぎたいなら、流れるプールでなく、普通のプールに行くしかない。という、大浜公園プールでした。
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このプールは私が子供の頃にも既にあった。友達が偶にいっていったようだが、学区からは、自転車一時間掛かったので、私はいったことがなかった。もっぱら、学校のプールへ行くか、ほとんどは、安倍川へ行っていた。土手の構造が、ところどころに、流れを弱めるためだろうか、流れと直角に土手の出っ張りがあった。その下流側に,深い淀みがあった。そこが、プール代わりになり、子供が集まっていた。土手から飛び込んだ、競争をしたり、鬼ごっこをしたりて遊び、泳げない子は、年上の人につかまえられて、放りこまれたりもしていた。私も小さい頃、上級生に、両氏と両腕をつかまれて、振られて、縁に放りこまれたものでした。そんな遊びをしているうちに、泳ぎが、何も、意識しないで、できるようになった。

また、今は、取っていないと思うが、砂利の採集が盛んに行われていた。パワーシャベルで深く掘っていたので,その跡は、絶対、足がたたない深いプールのようになっていた。格好の水泳場になっていた。

海水浴に行くなら、三保ノ松原で知られた、三保海岸に行くか、袖師海岸だった。袖師には東海道線の駅が、夏だけ使われていた。清水と興津の間だった。今は、ないでしょう。というより、袖師海岸自体が、埋め立てによって、清水のコンテナ港になってしまっている。駅から海岸までの道の両側に食堂や土産物屋や海で使う道具らなどが並んでいたし、海岸には、多くの海の家があって、大いに賑わっていた。最後に行ったのは、高校の時の遠泳だった。対岸の三保まで泳いだ。真夏の世の夢である。

これらのことが、いま、良く行くパンガンダランに夢は繋がっている。
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ヲータースライダーのチケットの自動販売機。
水泳 思い出 夢
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2015年08月07日

(^_-)-☆特待生

 2394 広島原爆投下の日でしたね。色々な特集番組が組まれていた。高校野球甲子園大会の開会式を、多分、初めてテレビで見た。好ききらいということではなく、ほとんど興味はなく、ほとんど、見たり、応援にいったりすることはなかったが、高校野球に関しての思い出はある。
先ず、今日の始球式で王貞治さんを見た。私が、多分、中学二年だったと思う。選抜で優勝した後だったと思う。草薙球場で、静高と静商が招待の早実と練習試合をした。それを、父親と一緒に見に行ったのでした。その時の王選手を見たくて、観覧席は一杯だった。王選手はピッチャーで四番だった。それだけのことだった。

その後、高校二年の時に、我が静高は、あれよ、あれよという間に、甲子園の決勝までいってしまった。決勝相手は、法政二高、その時のピッチャーで四番が後にジャイアンツの九連覇時代の一番バッター赤手袋の柴田選手でした。三対ゼロで負けて、準優勝。誰もが、勝つとは思わなかったので、良く底までやったな、という感じだった。びっくりした。やつら、そんなに、凄かったのかと。何度も、書いたかもしれないが、二番、セカンドの友人がいた。決勝で柴田から二本のヒットを打った。中学三年の時の同級生、私が一学期三学期の学級委員長、彼が副、二学期は、その逆だった。静高の野球部だけではなく、一般入試枠の他に、スポーツで優秀なら入学させていた、私は、当時から知っていた。しかし、彼は、一般入試で受かる学力も持っていた。
高校の一年の時も同じクラスだった。一年六組湯沢コースと言われて、特殊なクラスだった。ホームルームデーといって、クラスで自由に目的地を決め、遠足ではないが、一日一緒に過ごそうという日がった。自分たちで計画を立てて、手配もするのです。バスで富士五湖の方に行こうということになった。面白かったのは、どこか知らないが、バスを止めて、三つ峠に登ろうということになり、ほとんど、駆け足で登り降りした。
中学の時の運動部である程度活躍していた生徒が多く、集められた。野球部が6人始め、硬式テニス、バスケット、これらは当時、インターハイや国体で上位か優勝の実力を持っていた。その中に、私の卓球や柔道や重量挙げや軟式テニスなどの選手もいた。だから、一年の一回目の実力テストの結果は、学年で最高が15番から最下位までとバラツいていたが、学年末テストでは、最高が100番くらいになってしまっていた。

入学した時には、十分な学力があっても、運動部に属していると、どうしても、勉強の時間は短くなるし、同じ時間勉強しても、疲れが残っていて、思考力や記憶力が減っているのです。合宿の時などは問題集や参考書を持ってきて、夜は、それぞれ、勉強していたし、試合にいっても、試験が近い時には、合間に教科書を開いていた。それでも、普通に勉強している人とは差がつくのは仕方がない。私の場合は、三年の夏が終わって、部から離れた時から、まともな勉強を始めて、最終実力考査でやっと100番に入った。静高は、当時、100番以内なら、中程度の国立の工学部に入ることができるという評価だった。一部、二部校があって、家庭の事情で、大学は国立、浪人は駄目という条件があったので、滑り止めの二部の梨大工学部に滑り込んだ。

私が言いたいのは、今はどうか知らないが、当時は、野球部に限らず、全国区クラスの生徒が多かったが、入学当時は、ほどほどの学力を持っていた。ただ、三年間で、学内順位的には落ちて行った。運動で大学に入る人、普通の試験で大学に入る人、まちまちだった。中学の時に、上位20%くらい以下という生徒はいくらスポーツ能力が優れていても静高で受け入れることはしなかったと思う。

全ての生徒が認めていた。運動と勉強の両立とはどういうことか、それぞれが、どの程度以上なら両立できているというのか、自分の能力と合せて、評価はまちまちだと思う。当時の私と私の周囲にいた運動部員は全員、両立させていたと思う。
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賑やかな子供のころと比べて、今は、人が少ない、国道一号線、静岡駅前から500mほど西です。人も車もほとんど見えない。
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ショッピング。
両立 睡魔 特待生

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2015年07月28日

(^_-)-☆定期戦

 2384 小学校の時に父親の自転車の後ろに乗せられて、草薙球場へ行って静高静商(しずこうせいじょう)の定期戦の観戦に連れて行かれた。私は興味がなかったが、父は野球観戦が好きだったようで、都市対抗戦やプロ野球観戦にも付きあわされた。

明日、県大会の準決勝戦、静高静商戦がある。定期戦は、今はどうなっているか知らないが、以前は毎年行われていた。静岡の早慶戦などと言われていて、外野まで満員になるほどの人気だった。また、私が静岡に住んでいた高校生当時は、甲子園に交替で出ていたほどレベルが高かった。両校の卒業生もプロ野球や東京六大学で活躍していた。

小学校の頃、静商の野球部員が掛け声を掛けながら、安西の私の家の前までランニングに来ていた。また、吹奏楽のレベルが全国大会優勝入賞の常連だった。定期戦の時には。静高のブラスバンドは貧弱で、静商のブラスバンド部が戦いの前にグランドで行進演奏をして、観客を魅了していた。私は、何回か、学校の授業が終わってから、練習風景を見に静商まで行ったものでした。他のクラブ活動を見ていた。そんなことだったので、当時は静商に行きたいと思っていた。

ところが中学生になってからは、どうも、大学へ行くなら、静高へ行った方がいいと教えられた。そこで、静高へ行くことにした。野球の定期戦は当然やっていたし、甲子園の出場も夏も春も交替に出ているような感じだった。同級生が甲子園へ行っても、余り興味はなかった。応援も昼休みに練習すると掲示がでていたが、集まりは悪いし、応援部の連中もお願いの形で、逆にヤジられていた。で、私は、三年間、一度も野球の試合の応援に行ったことがなかった。全国で準優勝した時も草薙にも甲子園にも行ったことがない。ただし、同じクラスの友人も多かったので、頑張ってほしいと思っていたし、勝てば、うれしいと思っていた。二学期になって皆と会えば、スごかってねといっていやっただけだった。それだけのことだった。

しかし、明日は勝ってほしいし、甲子園に行って欲しいと思う。日本にいて、予選の様子を見守っているのは、初めてだと思う。
勝てば、寄付金の振り込み用紙が送られてくる。寄付はしない。卓球部のOB会としては、寄付をする。
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マツダまで行ったついでに、その先まで行ってみた。右側に草薙総合運動場?がある。野球場もこの中に有るが、私が行ったことがある野球場とは場所が違うと思う。
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ドッジボールの練習をしている孫。
定期戦 応援 寄付
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2015年06月07日

(^_-)-☆一寸18年前

 2333 三日休んでまたゴルフ、会社なのかゴルフ場なのか、このところ、通っている日は、ゴルフ場の方が多い。

ブカシバラット出口を左折して、また、左折して、ずっと直進し、ホテルホリゾンの正面入り口の前から敷地内に入る。入ってUターンして、メトロポリタンショッピングモールの北側沿いに戻り、一番東側の駐車場に駐車する。非常にややっこしい。のノ字の最後のハネがブカシバラットのゲートの出口という感じ。その駐車場からモールを見上げると“ほかべん”の看板が目に入る。1996年にここに来た時、このホカベンで食事をした。この辺りでは、唯一の日本食もどきのレストランだったので、案内の人が、気を利かせたのでしょう。美味しくなかった。ここが、ホカベンの発祥ではないでしょうか。今や、インドネシア中、どこにでもあるという感じだ。リッポチカランにもコタチカランにもある。ちょっと懐かしい看板でした。
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ブカシバラットのフィラドゥラトゥス(VIRA200)に多くの日本人が住んでいた。ブカシバラットには、日本人が、住む場所は、ここにしか無かったと言っていい。度々、送り迎えで、行っていた。ブカシからチカランに掛けて、今では、大型ショッピングモールがごろごろあるだが、当時、大きなショッピングモールは、リッポチカランのモールとこのメトロポリタンのモールしかなかったので、買い物や食事に寄ることが多かった。
その翌日、従業員から、「太田さん、だれ誰と一緒に、あそこにいたでしょ」と、必ず、言われていた。こちらは、全然、気が付いていないのに、彼らの目は非常に良いことが、このことからも、知ったし、彼等もぶらぶらする場所もこの辺りしかなかったのでした。

今は、ガルーダインドネシアのカウンターかイミグレに用事がある時にしか行かないし、本当は、渋滞が激しい可能性が高いので、行きたくない場所の一つになっている。
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先ほど、食事を終って、帰宅する途中、アンコッタ(ミニバス)がどういうわけか、右側のブロックにまたがって斜めに駐車していた。どうしたら、こんな風になるのか、やろうと思っても、なかなか、出来ない止め方だ。
ブカシ チカラン 生活圏
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2015年03月28日

(^_-)-☆母校、静高

 2262 ♪岳南健児一千の理想は高し富士の山、八面玲瓏白雪の清きは我等の心なり♪二番も同じ
     
    静岡高校に関する記事を読んだ。野球部員は一般学生とは別枠推薦入学で受け入れている、他の私立高校と同じようなものだ。という記事でした。確かに、入試の結果が不合格であっても、中学の時に野球で活躍していた有望な生徒なら、別枠で入学させている。私がいた55年以上前からの話、私のいたころは、野球、硬式テニス、バスケットは必ずと言っていいほど、全国大会で活躍していたし、全国優勝も多かった。今はその名残で野球部だけが、昔ほどではないが、甲子園に時々出場しているようですね。

出ると負けという印象が強いが、今日も、選抜で勝ちましたね。良かった、よかった。

推薦だろうと、一般枠だろうと、ちゃんと合格点を取って入学し、野球部に入った人も、それぞれ、刺激しあって、雰囲気を良くしているのが、静高野球部の伝統だと思っている。

私がいた55年ほど前、静商(セイショウ)と、ほとんど交互に全国大会に出ていたと思う。定期戦は、小学校の時から、草薙へ自転車で一時間かけて見に行っていた。その時は静商を応援していたが、進学は静高と決めていた。入ってみると、流石、推薦が多いとはいえ、実力テストの成績は370人全員が張り出され、野球部の連中を捜すにはビリから見た方が早かった。それでも100番くらいに頑張っている奴もいた。そして、静高でビリに近くても、他校なら上位に入る学力は有った。

私が二年の時に夏の甲子園で準優勝したのだが、私は、草薙にも甲子園にも応援に行っていない。私自身が卓球で県大会に行ったり、合宿だったり、行っている暇はなかった。静高はそういう生徒が多かったので、応援に行ったのは全校の三分の一もなかったと思う。チアリーダーなどいなかったし、ブラスバンンドもなかった。応援部の連中が、バンカラスタイルで三三七拍子とやっているだけだった。応援団の連中の言葉に従う生徒は少なかった。同級の石田勝君(石田三人組みの一人)の活躍が目覚ましく、一点差で勝ちあがっていった。中学で同級の稲葉君もセカンドで大活躍だった。雨の日、体育館に投球練習にやってきた。近くで卓球の練習をしていたが、彼の投球練習でバッターボックスに立ってと頼まれたので、立ったことがある。ド真ん中のストライクだったが、私は逃げてしまっていた。その一球だけで、懲りた。

という、私は、78期卒 71歳です。まだ、インドネシアで技術指導などをしています。先輩がインドネシアで応援しています。
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Universal Travel Chargerです。HPにケーブルを繋げてチャージをするコードは、HPに標準として付いているが、長く使っていると接触が悪くなって、チャージができなくなってくる。バッテリーが切れてしまって電話を受けられないというのは、失礼だと思うし、その言い訳は恥ずかしいと思っている私としては、予備のバッテリーを常に持っている。それでも、チャージをするには、HPに戻さなければならない、そこで、私は、HPに戻さなくてもバッテリーチャージができる、チャージャーを使っている。チャージ中は青色ランプが点滅している。終了すると赤ランプに変わる。二本の針は見える、そこにバッテリーの接触部分を付けて挟む込む、構造は単純です。3万Rp(250円)です。

ブレーキングニュースが流れた。夕方4時にOlgaオルガ、有名タレント、コメディアンがシンガポールの病院に入院していたが、インドネシアに戻ることなく、亡くなった。まだ、32歳くらいだと思う。ライブのテレビ番組は全て,追悼番組になってしまったほど衝撃的な出来事だと思う。インドネアシアでは、一二の人気者だった。私もフアンである、悲しい。
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この写真はポンドックインダー病院に入院している時だが、ラフィやジュペなど有名タレントで友人と一緒。
静岡高校 仰(人辺がない)高 岳南健児
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2014年04月17日

(^_-)-☆夢の途中38 1

 1917 その頃、仕事は軌道に乗っていて、忙しかった。いわゆるバブルの初期、大いに儲かっていた。押出成形機40mmφ一台で、当時でも200万円売りあげていた。3分の2以上が荒利で半分以上が純利益だった。それも原料価格、PCが900円/Kgしていた。それを毎月3〜5トンこなすのですから、面白いように儲かった。勿論、2千円くらいした12ナイロンや11ナイロンも扱っていた。軟ポリのスパイラルチューブも原料が100円/kgで500円以上で売れていた。上げた利益で装置を買って、特別償却で一年目に50%償却というやり方をし、設備も増やした。

始めた当初は、商社からの要求で、原料を購入する前に半額ほどの前金を振り込んでいて、入荷したと同時に残金を支払っていた。しかし、入金の全てが月末締めの翌月払い、そして、90日の約束手形だった。極端な場合、原料を購入してから5カ月後にならないと現金を受け取れない事になっていた。最初半年ほどで手持ちの資金がほとんどなくなってしまったが、半年後からは、預けておいた手形から当座預金に現金が入るようになってきたので、ずいぶん楽になった。その上、一年後からは、回し手形で良いよと言われ、毎月の売り上げの半分くらいを回して、請求金額より少し多く払いながら、半分は銀行に預けるようになっていた。

それ以後、静岡に移ってから、50歳で社長を止めるまで、銀行から小切手帳は貰っていたが手形帳は貰ったことが無かった。10万円以下は現金、それ以上は裏判を押して手形を回して支払っていた。手形を割る事も全く必要なかった。預けた手形の期日が来るまで十分資金は残っていた。私が止めた時の株の評価は、20倍以上になっていた。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage007.html
38歳ころから、ずっと、安定成長をしていった。前にも書いたが、当時は、二人で仕事をしていたので、私が朝8時から夜8時まで、もう一人(現在セピックの社長)に夜の仕事をしてもらっていた。週二回、夜8時に出荷、納品に出かけた。先ず、厚木の向こうの海老名市まで、22時に厚木プラスチック到着、行きは東名、帰りは節約のために御殿場街道を使った。家に帰るのが0時を回っていた。朝5時に家から出て、御殿場の神場(じんば)というところにある東方電材という会社に6時前に納品し会社に向かい、7時頃会社に着いていた。その他の出荷は、運送屋に頼んでいた。
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発展し続けるリッポチカランエリア。ホテル チトライン(このホテルは1996年には既にあった。このあたりでは、サヒッドとここしか、外国人が泊まれるようなホテルはなかった。)の前の道を南に行くと右にEJIPへの入り口、左にHYUNDAI工業団地への入り口、その先に、大規模なショッピングモールの姿が現れてきた。ちょっと遠くからだが、リッポチカランモールに3倍くらいは在りそうだ。
手形 小切手 現金
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2014年03月10日

(^_-)-☆夢の途中22 1

 1879 大学をでて、入社して直ぐから、会社の各職場を一か月毎に、巡って、いた。射出成型、プレス成型、ガラス繊維入りペレット製造、そして、四か月後、四か所目、検査室にいた。押出成形部門のボビンスリーブという製品の不良返品が山になっているし、返品も半端じゃなかった。大学は化学だったが、品管の手法を使った卒論を書いた私としては、何とかしなければと、思ってしまった。三交替で24時間生産の現場で付きっきりで、不良の種類と原因の究明と対策、解決方法を見つけようと、生産につきあった。昼間、他の人に8時間任せ、私は16時間夜勤を中心にデータ取りをした。土日を含めて二週間の予定だった。

13日目が終わった土曜日、明け方、勤務を終えて寮(寮は敷地内に会って仕事場から100mくらいしか離れていなっかった)に戻ったと同時に、強烈な腹痛に見舞われた、どうにも我慢ができない。七転八倒、寮母も何事かと駆け付けてきてくれて、痛み止めを呑んだが、一向になおらない。会社の事務所(ここも100mくらいの距離)に知らせに行ってくれて、車で直ぐ近くの国立東静病院へ送ってくれた。ところが、病因まで分くらいの距離だが、車に乗ったころから痛みが和らいで、病院についた時には、痛みがどこかへ行ってしまっていた。痛くもかゆくもなくなっていた。大騒ぎをした手前、今さら帰るわけにもいかずに救急受付にはいった。

看護婦しかいない、専門の先生はいない、とにかく入院しなさいと言われ、そのまま、病室のベッドに寝かされた。看護婦に、どこが痛いかと聞かれ、痛かった場所を押さえて見せた。結局、「専門医が学会へ出かけてしまっていて、月曜日出勤だし、返してしまうわけにいかないから、泊って行って下さい」ということになった。そして、昼食、夕食、重湯を少ししか出してくれない、日曜の朝になって、車を持っていた先輩、友人が見舞いに来た、「そんなにお腹が空いているなら、今から、長岡へバーベキューを食いに行こう」となって、看護婦に外出すると言って、片道1時間ほどの中伊豆の温泉地、長岡の山の中の野外バーベユーまで行ってたらふく食べて戻ってきたのが夕方5時ごろだった。 
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北のゴルフ場から、途中、昨日もよったトコ バングナンに今日も寄って買い物をし、リッポチカラン方面に帰る途中、ジャバベカ1を左に見ながら通過、そのすぐ後、前が塞がれていてまっ直ぐ南に向かえなくなっていて、左に曲がって、ジャバベカ2に入る。そして、しばらく行ったところでUターンし、先ほど、左に曲がった場所まで戻って、リッポチカラン方面に向かう。かなりの遠回りだ。今日は日曜なので、空いていたが、普段は、大渋滞の連続で、こちらの方面には、出来るなら来たくない。
無茶 規則 無鉄砲
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2014年03月05日

(^_-)-☆夢の途中48 2

1874 集中治療室で目が覚めた。痛い、お腹が痛い、強烈な痛み、我慢できない。痛み止めの注射を肩に、お尻に座薬を入れた。夜になった。隣の鼾が凄い、痛みは、酷いまま、眠れるわけがない、夜勤の看護婦に座薬を入れてくれと頼んだが、「太田さん、さっき入れたでしょ、堪え性がない人ね、我慢しなさいよ」と叱られた。結局、朝まで眠れなかった。鼾は相変わらず、朝出勤の看護婦に、痛く眠れなかったことと、鼾が煩いから、一般病棟に移してくれと頼んだ。座薬を入れてもらえることになった。「あら、太田さん、座薬が入っていなかったみたい、落ちていますよ、よく、一晩中我慢したわね、こんな人初めて、我慢強いのね」と感心されてしまった。何だよ、昨日の看護婦、とんでもないやつだ、と、思っているうちに痛みがなくなった。それと同時に隣の鼾がぷつっと止んだ。朝ごはんの時間らしい、扉の外をカートが通る音がする。深い眠りについた。夕方目が覚めた。妻や母親が私を見ていた。隣のおばあさんのベッドが空いていた。「移したの」と聞いたら、「今朝、なくなったのよ、手術をしようと開腹したが、手の施しようがなくて、何もしないで閉じたのよ、麻酔を沢山効かせて、眠って貰っていたの、太田さんには、迷惑だったでしょ」と、いうことだった。ドラマだね、こんな狭い空間で、こんな短時間に、色々、あるな、それを感じるのは、生きている証拠だなと。

一か月後に10kgやせた状態で退院した。その間、私に死んでもらっては困る人達が大勢見舞いに来てくれた。同行二人の人も来てくれた。牢名主ではないが、入院患者の代表者みたいな状態にもなっていた。よろず相談も引き受けていた。偶に、抜け出して、碁会所へも行っていた。見舞いに来た人で、行方不明の私に会えなかったほともいた。

禁煙をしていたが、帰りの車の中で運転をしながら、吸った。美味しかった。その翌日から、会社に出ていた。6月の初旬だった。お腹の皮膚が突っ張った時に痛みを感じる程度、他は、普通だった。

それから、約10日後、夜中に、急に下腹に強烈な痛みを感じた。我慢できない、運転して、病院へ向かった。緊急入院、顔なじみになった看護婦が、「やっぱり来たわね」という、そういえば、退院する時、看護婦から「また、会えるかもしれないね、きっと、戻ってくるよ」と、分けのわからない事を言われていた事を思い出した。聞くところによると、胃の手術は、小腸が邪魔になるので、掴んで、寄せるのだそうで、その、掴んだ場所の小腸の粘膜が剥がれ、本来、滑りやすくて、小腸同士がくっついてしまうことはないが、粘膜が剥がれると、くっ付いてしまい、その場所が、閉塞するのだそうだ。腸閉塞です。一週間、点滴だけで、なにも口にしなかった。X線チェックで、閉塞がなくなって、退院できた。
それから、また、一か月後、同じ事を繰り返した。腸閉塞の痛みは胃の手術の後より、痛かった。脂汗タラタラの痛みだった。それ以後、その病院へ行く事態には、なっていない。
76Kgあった体重が60Kg以下まで落ちた。体重に関しては、その後半年で65Kgになって、それ以後、現在まで、63Kg±2kgで安定している。

8月に二つの結婚式の媒酌人を務めた。結納の時の写真と結婚式の時の写真では、使用前、使用後のような風貌だった。

超早期発見、早期手術、そして、ほとんど胃を取ってしまったので、胃癌の心配はない、だから、インドネシアで今も普通に(パニック障害を除いて)生活出来ている。人生、色々あるうちの一コマでした。

ついでだから、書いておくが、今になっても、胃を切ったという話をすると、「胃はまた大きくなるんでしょ」と、ほとんど人はいう。胃を切った、私の父親も、自分で、「切った直後より、一度に食べやれる量が増えていったから、胃は大きくなっている」と言っていた。事実は、『胃が再生することはあり得ません』ただし、切った直後より次第にキャパシティは大きくなります。一度に食べることができる量は増えます。何故でしょうか、十二指腸がラッパのように膨らむからです。カメラで見ると、蛇腹のラッパが見えます。当たり前ですが、胃の消化液は増えません、動きもありません。胃で消化する栄養素は未消化のまま、吸収されず、通過します。だから、食べる量が増えても太る確率は少ないのです。いくら食べても太らない。異常な肥満の人は、胃を切って取ることが、究極のダイエット方法です。そして、胃がんに掛かるし心配もなくなります。良いことずくめです。切った胃は再生しません。トカゲの尻尾ではありません。
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またインドネシアに登場したおちゃ、日本茶ではない、しかし、日本のお茶だと宣伝している。
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伊豆の狩野川沿いの早咲きの河津桜が満開だとか。間もなく、桜の季節、日本にいる予定だ。手ぐすね引いて私を待っている方と桜の下でゴルフ、いいでしょう。
痛い 強烈 我慢強い
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2014年03月04日

(^_-)-☆夢の途中48 1

 1873 久しぶりの晴天で、朝、思い切って、ベッドのシーツや枕、掛け布団などを庭に広げて置いた。帰るまでに、雨が降ってしまえば、どうしようもなくなるが、一種の賭けだ。あまりに湿っているので気持ちが悪い状態だった。結果、十分乾燥することができた。やれやれ!!

ふと、思いだした事を書いてみる。48歳の4月末近くのこと。頼まれ仲人を二口引き受けていて、結納の儀式も済ませた一週間後、お腹が痛いのが三日ほど続いた。腹痛は一日二日で直ってしまっていたのが、その時は、ちょっと、変だぞと思って、病院へ行った。直ぐに胃カメラを呑んで、モニターを眺めながら、何かありましね、胃潰瘍ですね。1cmくらいの直径の白い部分を確認した。周りから五つサンプリングをした。「一週間後に来てください、悪性腫瘍か良性かをチェックします」五月の連休になった。妻と休みが合わなくて、一人旅が普通だった。

車で静岡インターへ向かい、西か東か、東にした。ずっと走って、青森は下北半島について、六ヶ所村を通って恐山についた。変な所へ来てしまったなと思う。大間町を通って、薬研温泉に泊まった。それまでは、眠くなった場所のサービスエリアか道端で寝ていた。この旅は、四国お遍路のように弘法さんの様な人と一緒だった。もしかしたら、悪性で転移してしまっているかもしれない、そうでなくても、胃を切ってしまわなければならないかもしれない、美味しいものをお腹いっぱい食べられるのは、最後になるかもしれないと思って、大間のマグロオオトロやマツタケをたらふく食べて、温泉に浸かった。仏が浦近くの道路で、速度違反で捕まった。東北弁の警察官、良い旅を、と、言って、見逃してくれた。ついでに、津軽半島の先端、竜飛岬、青函トンネルまで行ってきた。階段国道も歩いた。

5日に戻って、6日の病院へ行った。結果は一つが悪性だった。「切りますか、様子を見ますか」と問われた。即座に「切ります」と答えた。「では、今晩から入院してください、体調をチェックして、直ぐに切りましょう」という、直ぐ、入院し、翌日、体調良好、手術の問題なしで、二日後8日の朝、麻酔の注射をして、もうろうとなって,担架に移され、手術室へ入った。手術台に移され、「深呼吸をしてください」と言われ、深呼吸をしようとした途端に、マスクをあてがわれ、無の世界に入った。

気が付いたのは、集中治療、麻酔が切れて、痛くて目が覚めたようだ、時間は分からないが、看護婦の会話から夕方5時ごろだった。隣に私の後に手術をしたというおばあちゃんが寝ていた、鼾が、強烈だった。「痛いから、なんとかして」と、頼んだら、座薬を入れてくれた。続く。
 
 http://www.wakuwakujapan.tv/ja/time/page/201403.html 168チャンベルテレビ番組表です。
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Stasiun Tawang Semarangスマランの列車の駅の名前はタワンです。トイレはあんなでしたが、駅の外観と正面ホールはオランダ時代そのままの洒落たスタイルをしている。この近くにタンジュンマス、トゥルボヨ、チャンディなど工業団地があり、日系企業も多くある。
胃癌 手術 潰瘍
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2014年02月04日

(^_-)-☆大学生の時

 1845 高校時代については以前書いたが、大学生活についてです。定量分析や定性分析などをする機会が多かったので、穴だらけになった汚い白衣?をはおって学内を闊歩していた学生時代、先日、その場所に何十年振りかに行ってみたことは書いたが、本当は、本分なる勉強をほとんどしていなかった。ほとんど、遊んでいた。クラブは卓球部、一年の最初からレギュラーだったので、真面目に練習もしなかった。高校時代、やっていたどころか、運動もしていなかった人達が、大学へ入ったら、それほど、きつそうではない卓球部へでも入ってみるかとか、教育学部(当時は学芸学部といっていた)の人は、教員になった時に、何か運動部にはいっていた方が採用試験で有利などの感覚で大勢新入部員がいたが、そういう人を相手にする気が無かったので、練習はいい加減だった。上級生も似たりよったりで、私より上か同等の人は二人しかいなった。
で、同じ体育館でバドミントン部も練習していた。中に甲府二高(当時は女学校)バドミントン部にいた女子が二人新入部員として入って来ていた。二人とも上手で、いきなりレギュラーになっていた。可愛くて恰好もよかったので、直ぐに、話しかけて、練習はそっちのけで話をして、ちょっと、時になっていたり、卓球部の先輩、四年四年生に、私としてはかなり美人と思う人がいた。女性に中では一番上手で、他の女性部員では相手として不足だったのでしょう。私がいると必ず彼女から相手として指名された。髪を伸ばし始めたが、まだ坊主頭の私を可愛いと思ったのでしょうか、また、彼女が望む強さら、方向に打ち返すことができた私は練習相手として適当だったのでしょう。私はちょっと面倒だなという顔をしながら、結構、満足していた、彼女が部から離れるまで半年ほど続いた。後で知ったが、彼女には卒業した卓球部の先輩と既に婚約していたのでした。その先輩、結構、ハンサムで、休日や合宿などに現れて、何かと、指導をしていたが、地元にいる先輩は多いと思うが、その人以外は、だれも来ない。面倒見のいい人だなと思っていたが、彼女目当てだったのでした。

卓球ばかりでは付き合いが狭いと思って、書道部にもはいった。子供のころから書道は得意だったので、書道部にはいっても、あまり練習もせず、逆に教育学部の女性部員を指導していることが多かった。五十人ほど部員がいたが、工学部からは私ともう一人いただけだった。それでも、卓球部のキャプテンをしていたので、書道部では、部長の補佐をする機会が多かった。“学書展“といって、山梨県では相当権威のある、小中学生一般の人も対象に、書道展を山梨大学書道部が主催してやっていた。相当歴史もある展覧会です。各学校から出された書き初めを県の書道家の権威の方々にしんしてもらって、席書大会に来てもらう人を決めてもらい、席書大会会場は大学の付属小学校の教室を使った。300人くらいの児童生徒が山梨県中から集まった。学校対抗という賞もあったので、引率の先生も大変、燃えていたし、山梨大学の出身者が多かったこともあって、先生同士の争いにもなっていたようだった。賞に入った人たちの作品やや審査員の意見を載せるための小雑誌の広告費を集めて回ることもした。各、後援団体、例えば、県教育事務所や商工会議所やらへ出かけて行って、私が手書きした賞状に県知事とか教育長の大きな印鑑だけ押してもらった。

夏は合宿やら遠征で忙しく、冬は武田神社の右隣のある灌漑用水、竜が池でアイススケートを毎朝講義が始まる前に楽しんでいたし、長野ヘスキーをしに行っていた。愛宕山の展望台まで一週間に3回ほどは登っていた。ブドウの季節にはブドウ棚になっているブドウを手が届けば、とっと頂いて、食べながら行った。道端の垣根の外に、はみ出している柿やイチジクや枇杷やザクロなども大いに腹の足しにさせてもらった。合宿の時の牛カエル(食用ガエル)私は始めてその泣き声を聞いた。捕まえ食べてしまった、美味しかった。その後、泣き声を聞くたびに出動して食べていた。
家庭教師もいくつかやっていたし、奨学金も貰っていたし、頼めば親からも資金援助をしてもらえると思っていたし、自立の始まりでもあった。この時の生活環境が、今のインドネシアの環境とよく似ていると思っているので、この時も今も何の不自由も感じていなかったし、感じていない。勿論、友人にも恵まれた。この中で妻とも知り合った。思い出は、まだまだ、山ほどある、全てが、何のストレスも感じない自由で貴重は時間でした。人間関係などと言ったことは全く頭になかった。どうしてもやらなければならないなどということもなかった。自分がやれる事、やりたい事だけをやって過ごした四年間でした。そのままサラリーマンになってしまったので、務まるわけが無かった。
もう、50年も前の事です。当時の事は毎日日記を書いていたので大学ノートで5冊、今も残っている。
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 毎年の凸凹が今年も酷いことになっていて、たったの数百Mのこの場所通過するのに30分以上かかっている。やっとロードローラーが到着した、だからと言って、この強い雨の連続、舗装を修復するのか容易ではない。いつ直し始めるのでしょうか。
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この通り、どこでしょうか、分かる人は相当、リッポチカランの裏道を知っている人です。こんな静かな通りも在るのです。
無菌 自由 自立
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2014年01月03日

(^_-)-☆最後かも

 1813 私としてはどうでもいいことだが、取りあえず、習慣として、浅間神社へ初詣に行くことになっているので、みんなで出かけた。当然、ここには、静岡市をはじめ、相当広範囲からお参りに大勢の人が来る。車でいって、境内の駐車場に止めようとすると、最後尾についてから1時間以上行列の中にいなければならないことは分かっているので、私たちは、目的地から1kmくらい離れているが、元静大の跡地の公園まで行って駐車する。ここは、旧制静岡高等学校。戦後、静岡大学文理、教育学部があったところで、その後、日本平(にほんだいら)の山麓に移転したので、今は、城北公園?になっている。
そこから、歩いた地走ったりして浅間さんの石鳥居に向かう、途中、冨春院というお寺がある。中学一年の時の担任が住職をしていた。鈴木宗元先生だったと思う。地図の事を地理付図と言っていたことが印象的だったが、奥さんが他界されたときに、普通の日だったが、クラス代表で私はこのお寺に来てお悔やみを述べたことがった。その時、初めて、坊さんが10人以上見えてシンバルや太鼓で賑やかに御経を唱えている場面に会った事を思い出す。

シズハタ山から.jpg
写真は、賤機山(しずはたやま)の百段を上って、4か所目の展望台広場からのパノラマです。遠くには、左に富士山、清水の町、日本平、駿河湾が見える。その手前は、静岡市街北部、谷津山、静岡市街中心部。足元には、城北高校、従北公園、静岡高校、駿府城跡などが見える。素晴らしい展望でしょ。中学高校時代は、おそらく毎年50回以上は、この景色を見ていた、実際には、走っていた。その度に100段は5往復はしていた。だから、浅間神社へ来た時には、必ず山へ登るし、駆け足で登るってしまう。今日も、ところどころで休んだが、自然に駆け足になってしまった。百段を下りる時もかけ足だ。孫たちと競争だった。
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境内に大きな池が有って、その真ん中のくびれたとことに赤い橋がある、かがみばし、という。走ってきて、この橋の上で、透明の水で泳ぐ鯉や噴水の周りの岩で甲羅干しをしている亀をなんとなく眺めながら、青春を語った墓所です。そこで、今の家族の全員の影が映っている水面です。
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 ということで、初詣は理由であって、目的ではない、目的は、百段を上がって、出来るだけ上まで行くことです。それも、出来るだけ駆け足で。そして、まだできるということを確認するためでした。今回が最後になるかもしれない、と、思いながら。もっとも、パンガンダランまで出かけて行って、ジャングルの中でラフレシアを捜しまわることができていれば、こんなところは、全然、問題なし。
と、もうひとつ、懐かしの地に来て、若かりし日々を思うことです。この山の上の西側と東側に私の楽しいまたちょっと物足りない物語が数え切れないほど、次々と浮かんでくるほど詰まっているからだ。
浅間さん 賤機山(しずはたやま)百段

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2013年12月05日

(^_-)-☆恩人の死

1784 悲しい!!大ショック、こんなショッキングなことは、ほとんど経験がない。私の恩人の一方がお亡くなりになった。北川工業の会長、北川弘二さま。涙が止まらない。思い出は山ほどある。45年間の思い出が蘇る。昨年の暮れ、稲沢仮本社にお尋ねした時には、私が約束の13時に着いた、その時、既に、応接室で待っておられた。そして、私の仕事の話を熱心に聞いていただき、「技術者はいいな、組織など無くても、技術一本で人の手伝いができるからな」と、私を励ましてくれていた。「太田君、太田君」とその時も何度も言っていた。12年12月12日でした。
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http://blogs.yahoo.co.jp/enplaind/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=72その日の翌日のブログです。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.htmlエッジング、グメットを日本で初めて製品化し、商品化した事実を、私と北川会長しか証言できなくなってしまっていたが、とうとう、私一人になってしまった。日本の6ナイロンの小型異形品の溶融押出成形の幕開けでした。

毎年、平均で3回ほどお会いしていたと思う。とにかく、じっとしていな方でしたから、そう多くはお会いできない。それでも、本社を訪問する時には、他の方に会うために出かけて行って、訪問した目的に関しては担当者と2〜30分で終わってから、おられれば、必ず、会っていただいた。どうも、私に、何かと、愚痴を言い安かったらしい。まだいいだろ、と言いながらいつも二時間以上私を離さなかった。その中で、一番覚えているのは、秘書として働いていた女性が亡くなってしまった時でした。少し涙ぐみながら、彼女との思い出を淡々と話をしていた。お母さんと二人暮らし、家のトイレの中で心不全になって、発見が遅れ、帰らぬ人になってしまったという。社長がどうにかなるものではないが、本当に信頼していた女性だったことが良くわかる。

インドネシアでの仕事も私が東南アジアの国に技術を伝えたいと常に話していたことから、私も一緒に行ってみないかと、誘われて行ったのが始まりでした。PT.KITADAWAを離れた時も、パニック障害になった時も、これからどうするんだと、心配してくれた。その後、お世話になることは無かったが、PT.KITAGAWAがインドネシアから撤退する際、私が作り上げた押出し部門の引受先を紹介し、移転の手伝いをした。そして、その時、私の技術を引き継いだインドネシア人スタッフは、今、PT,NANBUで、インドネシアのエンプラ押出の牽引をしている。北川社長が機会を与えてくれたのでした。

そして、PT.KITAGAWAの最後の社長が営業畑の人として送られてきたが、どうにもならなくて、撤退することになり、その引受先としてNANBUを紹介し、仲介したのも私でした。そこは、今、PT.NANBUの第二工場になっている。偶に、前を通った時、寄ることもある

利益の配分というか、社会へ還元するということは、常に言っていた。多くの人に、いわゆるパトロン役をしていた。演奏会とか絵画展とか、ノーベル賞受賞者の講演などに私自身もよく出かけていた。それにも、私は影響を受けて、バブルで貯めたお金を、色々な人の援助として使ったし、技術指導の為の装置や機械を購入して多くの若者が実習しやすい環境をつくった。今もそれは継続している。そろそろ終わりだが。


ゆっくりお休みください。合掌。
社会貢献 影響 恩人
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ジャカルタ周回有料道路の料金が上がったようですね、普通車は7000から8000Rp
posted by 元気な振りの爺さん at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする